大津市歴史博物館

博物館の活動紹介

第26回 「南寺」ってどこ?

   上高砂(かみたかさご)遺跡は、大津市高砂町に所在する弥生時代から平安時代にかけての複合遺跡です。昭和62年度に実施された西大津バイパス建設工事に伴う発掘調査で、平安時代の土師器(はじき)・須恵器(すえき)・黒色(こくしょく)土器・灰釉(かいゆう)陶器・緑釉(りょくゆう)陶器・輸入陶磁器などの土器が多量に出土しました。この土器の中には「南寺」・「南前」・「大薗」・「一井」・「勢東」などの文字を墨で記した墨書土器が約30点認められました。墨書土器の中で特に注目されるのが3点確認された「南寺」と記されたもので、この墨書土器により平安時代に「南寺」と呼ばれていた寺院が存在していたことが判明しました。しかし、「南寺」という名前の寺院については文献史料等には記載されておらず、現在のところ、文献史料からその所在地について明らかにすることはできません。そこで、上高砂遺跡の周辺にある遺跡の状況から、この「南寺」がどこにあったかを推察してみたいと思います。

「南寺」銘墨書土器 長尾瓦窯出土瓦拓影・実測図
(滋賀県教育委員会・滋賀県文化財保護協会
『榿木原遺跡発掘調査報告書V』1981による)

 上高砂遺跡の北西約200mのところに、平安時代の遺跡である長尾(ながお)遺跡があります。長尾遺跡では、昭和52年に発掘調査が実施され、ロストル式平窯(ひらがま)1基と梵鐘(ぼんしょう)鋳造(ちゅうぞう)関連の遺構数基が発見されました。この平窯で焼成された瓦は、平安時代前期の軒丸瓦・軒平瓦・平瓦で、丸瓦は認められませんでした。軒丸瓦は複弁八弁蓮華文軒丸瓦の1型式、軒平瓦も均整唐草文軒平瓦の1型式でした。また、平瓦は凸面に縦方向の細かい縄叩き目を持つ一枚作りのものでした。この平瓦の中に裏字「南」の陽銘を押印したものが57点あり、字体には、太字・細字の二種類がありました。この「南」銘平瓦が、「南寺」の所在を考える上でカギになってきます。京都の平安京内に造営された東寺や西寺跡からは、「東寺」銘平瓦や「西寺」銘平瓦が出土しています。これらの文字瓦は生産地で供給先を明示したものとみられます。このことから、長尾瓦窯においても平瓦の供給先(消費地)である「南寺」意味する「南」を瓦に押印したと考えることができるのではないでしょうか。
 この長尾瓦窯で焼成された「南」銘平瓦が現在のところ消費地で出土していないため、「南」銘平瓦からは「南寺」の場所を知ることはできません。しかし、この窯で焼成された複弁八弁蓮華文軒丸瓦が、崇福寺(すうふくじ)跡の南尾根の北斜面から出土しています。このことから他の軒平瓦や平瓦も崇福寺跡の南尾根の建物に供給された可能性が高いとみられます。

上高砂遺跡 昭和62年度調査 崇福寺跡

 崇福寺跡は、上高砂遺跡の北西約1.0kmのところに所在する白鳳時代から平安時代の寺院跡です。『扶桑略記(ふそうりゃっき)』によると、天智7年(668)年に天智天皇の勅願で建てられた寺院で、大津宮の乾(北西)にあったといわれています。平安時代には十大寺のひとつに数えられるほど繁栄しました。崇福寺跡については、昭和3年に肥後和男氏が、昭和13年から14年にかけて柴田実氏が発掘調査を実施しました。これらの調査の結果、3つの尾根上に礎石建物が配置されていることが明らかになりました。南尾根上には、西側に基壇を設けた金堂と考えられている建物と、その東側に講堂と考えられている建物が配置されています。さらに、講堂の北側にも小規模な建物跡があります。また中尾根には、東西2つの基壇があり、西側の建物を小金堂、東側の建物を塔と考えられています。さらに北尾根には、弥勒堂(みろくどう)と呼ばれている瓦積み基壇を設けた建物が配置されています。次にこの3つの尾根上に配置された建物を比べてみると、北・中尾根の建物群と南尾根の建物群では、違いがあることが判明しました。北・中尾根の建物群と南尾根の建物群とでは、建物の方向や礎石の形が異なり、さらに南尾根の建物群周辺から白鳳時代の遺物が出土していません。これらの違いから、現在、北・中尾根の建物群を崇福寺に、南の建物群を桓武天皇が天智天皇追慕のために建立した梵釈寺(ぼんしゃくじ)とする説が有力視されています。
 以上のような上高砂遺跡周辺に所在する長尾遺跡や崇福寺跡の状況、すなわち、「南」銘平瓦を焼成していた長尾瓦窯の製品が崇福寺跡の南尾根の建物群に供給されていたこと、平安時代に崇福寺(北・中尾根の建物群)と梵釈寺(南尾根の建物群)が南北に並んでいたことなどから、崇福寺の南に位置する梵釈寺が平安時代に通称「南寺」と呼ばれていたと推察できるのではないでしょうか。


(学芸員 青山均)