企画展「大津事件」の事前調査の過程で、津田三蔵(つださんぞう)自筆の書簡53通が、三重県上野市の個人宅から新たに発見されました。津田三蔵は、明治24年(1891)5月11日、ロシア皇太子ニコライに斬りかかった巡査として知られていますが、津田三蔵の自筆書簡は、今までに数通の存在が明らかになっているだけです。今回、これほどまとまって発見されたこと自体が貴重であり、書簡の内容も、明治10年の西南(せいなん)戦争の生々しい従軍記録が含まれています。
(1) 津田三蔵の事件の動機に関して 津田が凶行におよんだ動機としては、従来、@ニコライの目的は日本の偵察にあった、A来日するなら、まず東京に来て、天皇に面会するのが本来である。B不平等な樺太千島交換条約をロシアと締結しておきながら、国賓として歓迎するのはどういうことか、Cニコライ来日とともに、西南戦争で死んだはずの西郷隆盛が一緒に帰国し、同戦争で受勲した者から勲章を剥奪する、などの諸説が指摘されている(津田は西南戦争で勳七等を授与されている)。これら@からCについては、事件後の津田に対する尋問のなかで、津田自身が供述していることだが、その反面、他の関係者の供述によれば、事件数日前、津田は、野洲郡三上村の駐在所を出発するに際し、妻に「御通行が早く済めば、すぐに帰ってくる」、「今回の警備は、旅費をくだされるので、自分としては喜んでいる」などと語っていたという。この供述を信じるなら、津田には直前まで、凶行を起こす意思はなかったとも見られる。 そこで考えられることは、上記@からCまでの動機は、津田も、新聞や世論の動向から、そのように考えてはいたが、主要な理由ではなく、事件までは潜在意識としてあったに過ぎなかった。それが、5月11日の事件当日、何かが津田に起こり、とっさの凶行となった。その何かとは。 津田は、事件当日、3回警備地を替えている。第1回目の警備地である三井寺観音堂には、西南戦争の記念碑が建っていた。そこへ、ロシアの随行官がやってきたが、碑に敬意を払わなかったことを、津田は無礼と感じた。また皇太子を歓迎する花火が遠くであがっていたが、その音から、大砲の音を想起し、かつて従軍した西南戦争の記憶がよみがえった。5月27日の大審院判決でも、殺意を持ったのは、この三井寺境内でのことと認定されている。 ではなぜ、それほどまでに西南戦争が、彼の心のなかで重きをなしていたのだろうか。今回発見された津田の書簡に見える西南戦争の記述は、その前年に熊本で起こった神風連の乱から記録され、翌10年の西南戦争の発端、焦土と化した熊本、鹿児島の状況、西郷軍の敗走から最後の城山(しろやま)攻撃、戦争が終わり神戸港へ帰着する模様にまで及んでおり、戦場の模様を表現する生々しい文章、不平士族への痛言などが、彼独特の言葉使いで記されている。それら詳細な記述から、彼の人生のなかで、西南戦争時の体験や戦功が、他のどんな体験よりも輝かしく、誇りとすべきものであったかを伺い知ることができ、また不平士族への批判からは、22歳(満年齢)の多感な若者像が浮かびあがってくる。 従来、西南戦争が津田にとって重要な位置を占めていたのではないかと言われてはきたものの、なんら実証的な資料はなかった。それが、今回の書簡発見によって、裏付けられたといえるし、津田自身の人生の空白部分、ひいては大津事件の空白部分を埋めて、あまりある貴重な資料といえる。
彼は、兄弟や母に宛てた西南戦争の戦況報告として書簡を残している。
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明治10年(1877)、旧薩摩藩を中心とする士族が、西郷隆盛を擁(よう)しておこした最大の士族反乱(反政府戦争)。その背景には、明治維新(いしん)政府の一連の近代化政策により、士族の地位が没落したことに対する反感などがあった。明治10年2月14日に西郷軍が鹿児島を進発、同月20日征討本営を大阪に設置、緒戦は熊本城の攻防戦であったが、3月に行われた熊本北方田原坂(たばるざか)の激戦で敗れた西郷軍は、以後守勢にまわり、9月24日、城山における戦闘で西郷以下、副将の桐野利秋(としあき)らが戦死し、戦争は終結した。 津田三蔵は3月11日、鹿児島賊徒征討別働隊第一旅団に編入され、西郷軍の背面日奈久(ひなぐ)(現八代市)に上陸するが、同月26日、左手に銃創を負い入院、退院後、鹿児島で本隊に復帰。戦後の10月9日、勲7等と金100円が下賜された。 |