大津市歴史博物館

お知らせ

企画展
描かれた幕末の琵琶湖 −湖・里・山のなりわい−
平成15年5月21日(水)〜6月15日(日)

概要

眺望図
琵琶湖眺望真景図」(部分)本館蔵

 慶応2年頃、四条派の絵師広瀬柏園は、大津港の沖に船を浮かべ、見渡す景色をスケッチしました。瀬田唐橋からはじめ、琵琶湖南湖を反時計回りに描き、最後は尾花川で終わる8.5mに及ぶ作品です。柏園は、晩年に近い高齢でしたが、彼の筆は正確に目に映るモノを写し取っており、多くの情報を伝えてくれます。本展では、この作品から読み取れる情報を、関連資料と併せて紹介し、身近な景観の変貌を考えようとするものです。


湖上の丸子船

 この作品で特に注目されるのは、湖上で活動する人々の姿が活写されていることです。柏園が湖上で描いていることを思うと当然ですが、彼の周りに浮かぶたくさんの船が描かれています。
まず目に付くのが、琵琶湖独特の木造和船「丸子船」です。鉄道開通以前、琵琶湖の湖上交通が盛んだったことはよく言われてきましたが、その主役が丸子船でした。でも江戸時代の丸子船が、どのような姿だったのか、確認できる資料を欠いていたのも事実です。

 民具なども同じ運命ですが、あたりまえに目の前にあったものは、意外と記録されず時間の中に埋もれてしまうことがよくあります。その意味でこの作品は、一八六六年ごろの丸子船を正確に伝えており、注目されます。

 

眺望図


また大津に入港する直前のため、帆をおろし、舵を上げ、陸揚げの準備に荷物の整理をする姿が捉えられている点も、当時の操船の様子が読み取れて貴重な情報といえるでしょう。


藻を採る農民たち

次に多く描かれているのは、湖中の藻を採る船です。湖岸(内湖岸も含めて)の農村では、化学肥料が普及する前、有機肥料として藻や泥が盛んに利用されていました。明治一三年の統計(『滋賀県物産誌』)を見ると、湖岸のほとんどの農村が藻や泥を肥料として利用していたことが窺えます。二本の竹の一箇所を縛り、はさみのようにして藻をまきつけて採る方法です。藻を採取する目的だけでなく、日常的に小型の木造和船が利用され、田船と呼ばれていました。湖岸農村では、集落から耕地へ行く道が水路しかなく、現在の軽トラックのような感覚で田船が利用されていたのです。

眺望図

 近江八幡市の西部、湖岸に面した村々が明治五年(一八七二)に提出した『農具取調絵図書上帳』という冊子があります。この年全国規模で農具調査がおこなわれ、提出された一冊の控えと思われます。ここには三五の農具が描かれていますが、中に舩(田船)・櫓・棹・突桶といった操船道具や、泥かき・藻かきといった道具も含まれています。藻かきも竹二本を縛ったものから、先に針の付いた形状に変わっているのは、時代の変化といえるでしょう。湖岸農村では、こうした船や湖上で利用する道具も農具の一つと認識されていたのです。


はげ山、その再生
 眺望真景図に描かれた湖南の山々を見ると、赤く彩色されている部分が目立ちます。はげ山だったところです。山々の荒廃が進んだ理由は定かではありませんが、都に近く、運び出すのに便利な水運(湖や川)があったため、古くから用材供給地として伐採がすすんだようです。木の再生には、大変長い時間が必要です。まして地肌が侵食された状態では、昔の姿を復活させることは難しいでしょう。
明治六年(一八七三)田上地区の地籍図を見ると、山々が茶色に塗りつぶされており、はげ山だった印です。花崗岩質で、荒廃がすすみ植林もままならぬ状況にあったようです。雨が降ると土砂が流出し、川底に沈殿して琵琶湖の水位にも、また、下流の淀川や大阪湾にも影響を与えていました。
明治時代になると、大阪港の築港を目的に、流入する土砂を防ぐため、淀川流域の治山事業が政府の手によって進められます。オランダ人技術者も加わり試行錯誤が重ねられ、山々に緑を復活させる地道な作業が行われました。現在では、かつてはげ山だったところも、見違えるように緑が根付き、今もこの努力が続けられています。

 

 

観 覧 料

一 般

400円(320円)

高大生

300円(240円)

小中生

200円(160円)

( )内は一五名以上の団体、市内在住の六五歳以上の方・障害者の方の割引料金

  

休館日 月曜日