大津市歴史博物館

大津れきはくオリジナル花押壁紙 2022

大津ゆかりの戦国武将たちの花押・印判をあしらった壁紙をつくりました!
花押とは、今でいう「サイン」、印判は「はんこ」のことです。
デスクトップ用とスマートフォン用があります。ぜひダウンロードして使ってみてください♪
2か月に1回更新予定です。どの戦国武将の花押・印判が登場するかお楽しみに!!
(2023年1月〜12月に更新したものです。当初は、PC向けでカレンダー付ver.がありましたが、現在はカレンダー無しに差し替えています。)


11〜12月更新

現在まで続く大津の発展の基礎を築いた太閤様

豊臣秀吉
天文6年(1537年)〜慶長3年(1598年)

 尾張国中村出身の秀吉は、はじめ木下藤吉郎秀吉と名乗り、のちに羽柴秀吉と名を改めました。織田信長に仕え、以後順調に出世します。  
 天正10年(1582)6月の本能寺の変の後、明智光秀をはじめとしたライバルを次々と破り、天正18年に小田原北条氏を下し天下の統一を成し遂げました。  
 秀吉は武家ではじめて関白に就任し、豊臣姓を天皇から賜りました。また、大津城を築き、町を整備するなど大津を都市として発展させました。

豊臣秀吉朱印状(大津市歴史博物館蔵)

 
 

 ほかの資料も合わせると、この秀吉の命令によって、琵琶湖水運の公用船の手配ルートは、@大津城主→大津百艘船、A船奉行→堅田・諸浦という2つのコースがあったことが明らかになりました。

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9〜10月更新

毛利元就の末っ子にして西国随一の猛将

毛利秀包
永禄10年(1567年)〜慶長6年(1601年)

「三本の矢」で有名な毛利元就の九男。若くして羽柴秀吉のもとに人質に行きますが、厚遇されます。小牧・長久手の戦いや四国征伐などに従軍し、戦功を挙げ、天正15年(1587)には筑後久留米城主となります。文禄・慶長の役でも活躍し、猛将として名を馳せます。慶長5年(1600)9月の大津城の戦いでも活躍しますが、関ヶ原での西軍の敗報を聞き、帰国する途中で発病。翌年に死去します。
 妻が大友宗麟の娘である影響か、熱烈なキリシタン大名でした。

毛利秀包感状(大津市歴史博物館蔵)

 
 

 関ケ原の戦いの局地戦である大津城の戦いが起こった時、攻撃側の毛利秀包が藪九右衛門にあてた感状。感状とは、戦功を称えるために書く手紙のことです。藪九右衛門は大津城本丸の鉄の門付近で、数か所に傷を負いながらも奮戦。その功労に対して、五百石を加増することを伝えています。本文中には「鉄之門」とあり、確かに大津城本丸には鉄門があったことを示しています。

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7〜8月更新

若狭国主まで上りつめた最後の大津城主

京極高次
永禄6年(1563年)〜慶長14年(1609年)

 京極高次は、鎌倉時代以来の名門京極氏の出身です。妹龍子が羽柴秀吉の妻になり、自身も浅井三姉妹の次女初を妻にしたことで、秀吉の義兄弟になりました。その影響で次第に出世し、文禄4年(1595)に大津城主となりました。慶長5年(1600)9月には、徳川家康に呼応して、大津城に籠城します。西軍相手に奮戦するものの降伏。しかし、後に戦功が認められて、若狭国小浜城主となりました。肖像画を見る限り恰幅の良い人だったようです。

京極高次大津百艘船高札(大津市歴史博物館蔵)

 
 

 高札とは、民衆に法令などを知らせるために、往来のある場所に法令などを書いた木の札を掲示したものをいいます。

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5〜6月更新

秀吉の親戚にして行政で手腕を発揮した初代大津城主

浅野長吉
天文16年(1547年)〜慶長16年(1611年)

 浅野長吉(長政)は、織田信長に仕え、のちに羽柴秀吉の家臣となりました。天正11年(1583)には坂本城主となり、坂本町中に11か条の定書を発布しています。大津城が築城されると初代大津城主となりました。のちに若狭国小浜城主となり、その後に甲斐国主となります。秀吉の五奉行筆頭として行政手腕を発揮する一方、伊達政宗などの東国大名の取次を務めていました。
関ヶ原の戦いでは東軍につき戦いました。戦後、小浜城主となった京極高次にアドバイスを送っています。

浅野長吉掟書(大津市歴史博物館蔵)

 
 

 坂本城主であった浅野長吉が「堅田四方」に対して出した掟書です。(1)琵琶湖の諸浦での荷物輸送や商売等を保障、(2)堅田浦での船夫・陣夫の負担、(3)公事船を仰せつけるというものです。

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3〜4月更新

織田信長を軍事・政務両面で支えた宿老

丹羽長秀
天文4年(1535年)〜天正13年(1585年)

 織田信長の家臣であった丹羽長秀は、浅井・朝倉連合軍との戦いの戦功を認められ、佐和山城城主となり、水軍を組織しました。織田信長に命じられて、安土城普請の総奉行を務めるなど、軍事だけでなく築城や政治に関しても才能を発揮し、織田家の宿老の一人になりました。本能寺の変後は、羽柴秀吉とともに山崎の戦いで明智光秀を討ち、大溝城主となりました。
また、その後は坂本城主となり、落城した坂本城を再建したことでも知られています。

丹羽長秀書状(大津市歴史博物館蔵)

 
 

 丹羽長秀が堅田の諸侍にあてた書状です。浅井家家臣の磯野員昌が信長方となったため、与えられた高島郡への移動にあたり丹羽長秀が堅田に対して船100艘の提供を命じたものです。このとき明智光秀が護衛を務めたことも記されています。

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1〜2月更新

比叡山延暦寺焼き討ちで戦功を立て、
初代坂本城主になった織田信長の懐刀


明智光秀
生年不詳〜天正10年(1582年)

 明智光秀は、朝倉義景、足利義昭に仕え、その後は織田信長に仕えました。元亀2年(1571)9月の比叡山焼き討ちに参加し、信長に滋賀郡支配を命じられ、坂本城を築城しました。宣教師ルイス・フロイスは著書『日本史』で「信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にない」と記し、坂本城は湖上に浮かぶ水城で、豪壮かつ優美な城であったと伝わります。
 天正10年6月2日未明、光秀は主君信長の宿所であった本能寺を攻め、信長を自刃に追い込みましたが、その後12日の山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、坂本に戻る途中何者かに襲われ、あえなく没しました。

明智光秀書状(個人蔵・大津市歴史博物館寄託)

 
 

明智光秀から雄琴の土豪・和田氏に宛て、反信長勢力との戦いの最中に出した書状です。雄琴の様子を尋ねて、防備を万全にするように通達した内容です。また、「付城」の完成をねぎらい、下々の方へも感謝の言葉を伝えてほしいこと、さらに病気の土豪・八木氏を心配する内容など、光秀の気遣いが読み取れます。 

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