お初にお目にかかるでござる!わしの名前は『ひでよし』!
わしが今から450年前くらい昔、大津の町をつくったのは知っておるかな?
大津城を築き、町を整備して、大津を都市として発展させたのがこのわしでござる。
今年の壁紙は、わし『ひでよし』や弟の『ひでなが』、そして、わしの信頼する家臣たちが主役でござる!
壁紙といっしょにわしらと関わりのある大津の場所や品を紹介するぞ!
壁紙の更新は2か月に1回の全6回でござる!
PC用とスマートフォン用を用意するからの!
壁紙をダウンロードして、わしが礎を築いた町「大津」をもっともっと知るのじゃ!!

秀吉の生い立ち・大津とのかかわり
尾張国愛知郡中村(現愛知県名古屋市中村区)出身の秀吉は、幼名を日吉丸といい、はじめは尾張の大名織田信長に足軽として仕えました。弟の秀長や浅野長吉といった家臣たちの支えもあって長浜城主になるなど、信長のもとで目覚ましい出世をしていきます。天正10年(1582)本能寺の変の後、主君信長を討った明智光秀を倒し、政治的・軍事的に主導権を握りました。そして、天正18年(1590)には、ついに全国の統一を成し遂げました。
秀吉は大津を京・大坂と東国の交通の要所として重視したため、坂本城を廃城して、代わりに大津城を浅野長吉に命じて築かせました。また、町を整備するなど大津を都市として発展させたのです。
秀吉と山門再興
秀吉と大津とのかかわりは深く、後年の記述ですが、天保3年(1832)に書かれた比叡山延暦寺案内記の『御山のしおり』には「元亀二年辛未九月十二日織田公の為に焼失なわれて天正十二年甲申 豊臣公之を再興せらる」とあり、秀吉が比叡山焼き討ちによって荒廃した山門(延暦寺)や日吉社の再興したといいます。
秀吉の山門再興については、『天正本山再興記』に次のようなエピソードがあります。延暦寺の僧詮舜が秀吉に対して、秀吉の幼名が「日吉丸」であるため、武将として出世していった様子は朝日が昇るようだといい、日吉比叡がまた輝くことは自然の道理であると説いたと伝わります。こうした詮舜らの説得もあり、秀吉は山門再興を許可する判物(公的証明書)を出したといいます。
秀吉と日吉大社
ちなみに、秀吉が再興に寄与した日吉大社は猿が魔除けの象徴として信仰されています。日吉大社の猿は「神猿(まさる)」といい、「魔が去る」「勝る」といった言葉に通じる縁起の良いお猿さんです。ところで、ドラマなどの創作物で、秀吉が「サル」というあだ名で呼ばれることがありますが、秀吉に謁見した朝鮮人の記録で「秀吉は猿に似ている」とあり、あだ名の通り、猿に似た容貌だといわれることもあったようです。幼名の「日吉丸」や「猿」といった共通点は、秀吉と日吉大社との浅からぬ縁を感じさせます。
大津城の築城や琵琶湖の水運の整備により、大津を東国・北国の諸物資の大集散地として発展させた秀吉は、まさしく大津の町の礎を築いた武将といえます。こういった秀吉と大津のゆかりの場所や出来事を今年は全6回に分けて紹介していきます。

