大津市歴史博物館

大津れきはくオリジナル壁紙 2026

お初にお目にかかるでござる!わしの名前は『ひでよし』!
わしが今から450年前くらい昔、大津の町をつくったのは知っておるかな?
大津城を築き、町を整備して、大津を都市として発展させたのがこのわしでござる。
今年の壁紙は、わし『ひでよし』や弟の『ひでなが』、そして、わしの信頼する家臣たちが主役でござる!
壁紙といっしょにわしらと関わりのある大津の場所や品を紹介するぞ!
壁紙の更新は2か月に1回の全6回でござる!
PC用とスマートフォン用を用意するからの!
壁紙をダウンロードして、わしが礎を築いた町「大津」をもっともっと知るのじゃ!!

3月・4月更新

杉原家次と「坂本城」      

坂本城の築城から落城、そして再建まで
 織田信長は元亀2年(1571)比叡山延暦寺を焼き討ち後に、家臣の明智光秀に坂本城を築かせました。光秀は、城内に琵琶湖の水を引き入れた水城形式の城を築きます。しかし、天正10年(1582)6月の本能寺の変で光秀は主君信長を討ちとりますが、直後の山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、優美で豪壮な姿を誇った坂本城も落城しました。落城後は織田家の重臣丹羽長秀が城主となり、再建を行いました。秀吉は自らが坂本城主になると「天下を狙っている」と疑われるのを避けるため、長秀に城主の座を譲ったといいます。それほどまでに当時の坂本城は、天下の行方を左右できるほど重要な城だったといえます。
杉原家次と坂本城
 天正11年(1583)4月には、丹羽長秀の後任として秀吉の家臣杉原家次が坂本城主となりました。杉原家次は、秀吉の正室・ねね(高台院)の母の兄、つまり秀吉の義理の伯父にあたります。 織田政権下では、坂本城が監視の役割を担っていた山門の再興は許されませんでした。しかし、賤ケ岳の戦い後に坂本城が秀吉の支配下となり、秀吉からの厚い信頼を受けた杉原家次が城主を務めるようになると、山門再興の動きが盛んになりました。家次は朽木谷の材木800本を日吉大宮社に寄進するとともに、「坂本御天守用」の大材木100本も一緒に坂本に送るように指示をしています。このことから日吉社の復興と坂本城の普請は同時に行われていたことがわかります。しかし、杉原家次の城主在任は長くは続きませんでした。天正11年(1583)11月、家次狂気の風聞がたち、その後、丹波国福知山城へ転封となりました。家次が坂本を去った後、また秀吉と縁戚の浅野長吉が城主となります。長吉も山門の復興に尽力しましたが、天正14年(1586)ごろ秀吉の命で坂本城は廃城となり、大津城を築城することになります。
現在の坂本城
 現在の坂本城跡は昭和54〜57年度に本丸推定地の発掘調査がおこなわれ、光秀と秀吉それぞれの時期とみられる建物跡が見つかっています。地上には遺構がほとんど残されていませんが、琵琶湖が渇水した際には、当時の石垣が湖畔から現れることがあります。「幻の城」と呼ばれる坂本城ですが、令和5年度の発掘調査では、三の丸の外郭と見られる石垣を伴う堀が発見され、大きな話題になりました。そして令和7年9月18日には国指定史跡となり、今後も貴重な文化財として後世に伝えていくことになりました。なお、令和5年度に確認された石垣は、遺構の保護、現場の安全管理の徹底のため、現在は見学することができません。明智光秀が築き、杉原家次など秀吉の家臣たちが城主を務めた坂本城は、近年の発掘調査で少しずつその姿が明らかになってきています。琵琶湖畔にたたずむ坂本城の輪郭がおぼろげながら見えてきたのです。

坂本城 三の丸石垣 
(上:発掘調査区全体,下:検出された石垣)
※現地の見学はできませんので、ご注意ください。

 
 

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1月・2月更新

豊臣秀吉と「大津・比叡山・日吉大社」      

秀吉の生い立ち・大津とのかかわり
 尾張国愛知郡中村(現愛知県名古屋市中村区)出身の秀吉は、幼名を日吉丸といい、はじめは尾張の大名織田信長に足軽として仕えました。弟の秀長や浅野長吉といった家臣たちの支えもあって長浜城主になるなど、信長のもとで目覚ましい出世をしていきます。天正10年(1582)本能寺の変の後、主君信長を討った明智光秀を倒し、政治的・軍事的に主導権を握りました。そして、天正18年(1590)には、ついに全国の統一を成し遂げました。
 秀吉は大津を京・大坂と東国の交通の要所として重視したため、坂本城を廃城して、代わりに大津城を浅野長吉に命じて築かせました。また、町を整備するなど大津を都市として発展させたのです。
秀吉と山門再興
 秀吉と大津とのかかわりは深く、後年の記述ですが、天保3年(1832)に書かれた比叡山延暦寺案内記の『御山のしおり』には「元亀二年辛未九月十二日織田公の為に焼失なわれて天正十二年甲申 豊臣公之を再興せらる」とあり、秀吉が比叡山焼き討ちによって荒廃した山門(延暦寺)や日吉社の再興したといいます。
 秀吉の山門再興については、『天正本山再興記』に次のようなエピソードがあります。延暦寺の僧詮舜が秀吉に対して、秀吉の幼名が「日吉丸」であるため、武将として出世していった様子は朝日が昇るようだといい、日吉比叡がまた輝くことは自然の道理であると説いたと伝わります。こうした詮舜らの説得もあり、秀吉は山門再興を許可する判物(公的証明書)を出したといいます。
秀吉と日吉大社
 ちなみに、秀吉が再興に寄与した日吉大社は猿が魔除けの象徴として信仰されています。日吉大社の猿は「神猿(まさる)」といい、「魔が去る」「勝る」といった言葉に通じる縁起の良いお猿さんです。ところで、ドラマなどの創作物で、秀吉が「サル」というあだ名で呼ばれることがありますが、秀吉に謁見した朝鮮人の記録で「秀吉は猿に似ている」とあり、あだ名の通り、猿に似た容貌だといわれることもあったようです。幼名の「日吉丸」や「猿」といった共通点は、秀吉と日吉大社との浅からぬ縁を感じさせます。
 大津城の築城や琵琶湖の水運の整備により、大津を東国・北国の諸物資の大集散地として発展させた秀吉は、まさしく大津の町の礎を築いた武将といえます。こういった秀吉と大津のゆかりの場所や出来事を今年は全6回に分けて紹介していきます。

御山のしおり 江戸時代 大津市歴史博物館蔵

 
 

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