お初にお目にかかるでござる!わしの名前は『ひでよし』!
わしが今から450年前くらい昔、大津の町をつくったのは知っておるかな?
大津城を築き、町を整備して、大津を都市として発展させたのがこのわしでござる。
今年の壁紙は、わし『ひでよし』や弟の『ひでなが』、そして、わしの信頼する家臣たちが主役でござる!
壁紙といっしょにわしらと関わりのある大津の場所や品を紹介するぞ!
壁紙の更新は2か月に1回の全6回でござる!
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大津百町成立前の大津
東海道の逢坂峠を越えると眼下に広がる大津の中心市街地のことを「大津百町」といいます。中世の大津は交通の要衝や琵琶湖水運の要港として栄えてはいましたが、まだまだ農村的な雰囲気を残した場所だったそうです。
『耶蘇会日本通信』における元亀2年(1571)9月18日付のイエズス会の宣教師ルイス・フロイス書簡には、「此の山(比叡山)より一レグア(一里)の所に、三井寺と称する町あり。人口約二千なるべく、多数の僧院と大学者を有し、これに付したる収入の大なるに依り、日本に於いて甚だ有名なり。」とあります。当時の大津は、宣教師の眼には、園城寺(三井寺)の門前町として意識されていたことがわかります。
大津百町の萌芽
大津に大きな転機をもたらしたのが、豊臣秀吉による大津城の築城でした。天正14年(1586)ごろ、秀吉の命により、明智光秀が築いた坂本城を廃し、家臣の浅野長吉が大津城を築いたとされます。また、秀吉は船持仲間の「大津百艘船」を組織させ、琵琶湖水運における特権を与えることで、大津から他浦への荷物と人の輸送を独占させました。
その後大津は、秀吉の直轄領から運ばれる年貢米の集散地として発展しました。五奉行のひとりである増田長盛も大津に屋敷があったとされ、他の秀吉の家臣たちの蔵も立ち並んでいたと考えられています。こうして秀吉の時代から、のちの大津百町につながる町の基礎が形成されていったのです。
しかし、秀吉の没後、慶長5年(1600)9月には、関ケ原の戦いの前哨戦ともいわれる大津城の戦いが起こりました。大津城主京極高次は、西軍を迎え撃つため、大津城に籠城しました。そして、敵軍の隠れるところを無くすため、城下町に火を放ちました。その結果、大津の町は焼け野原になったといいます。
関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、大津城から城を膳所へと移しました。また、大津を商業都市として発展させるため、町の再建に乗り出しました。慶長7年(1602)には、大津町の住民に、地子(土地税)を免除するという特典を与え、住民が再び戻ってくるように復興策をとりました。住民は焼け野原となってしまった城下町に残る縦横の通りに沿って、町屋を建てていきました。
古地図からみる大津百町
「大津町之内浜通之図」には、江戸時代中期の大名蔵屋敷や米蔵が立ち並ぶ様子が詳細に描かれており、旧大津城本丸跡には、御蔵(幕府の米蔵)や大津代官所がみえます。また、彦根藩などの蔵屋敷、北保町には加賀前田家の大きな蔵屋敷もあります。大津町が琵琶湖水運における物資集積の拠点として栄えていたことがうかがえます。
江戸時代中期以降に作成されたと考えられる「大津町古絵図」をみてみると、大津百町の町並みの様子がよくわかります。町家が黄色、寺院が朱色で色分けされ、通りには町名が記されています。幕府の法令を掲示する高札場の札ノ辻は、東海道五十三次の宿場町の中心でした。また、今堀関や川口関など荷揚げ場所を示す「関」の名前が各所にみられ、湖岸一帯が港の役割をもっていたことがわかります。
大津は、古くは門前町として、豊臣秀吉の時代からは港町、宿場町としてなど、様々な特徴を持ち栄えた町でした。その礎を築いたのはまさしく豊臣秀吉であり、実務を担った家臣たちが発展させてきたのです。





大津百艘船の創設
山崎の戦いで明智光秀を破った羽柴秀吉は、勢いそのままに織田家の宿老である柴田勝家にも賤ケ岳の戦いで勝利をおさめました。これにより秀吉は、政治的・軍事的にも主導権をとることになり、天下一統への道を歩んでいくことになります。その後、秀吉は天正14年(1586)に坂本城を廃城にし、浅野長吉に命じて大津城を築かせました。これは、徳川家康との和睦によって、東国との緊張が緩和されたことに加え、同時期に京都の聚楽第や第二期大坂城の建設が進められており、用材を運ぶには坂本より大津の方の便がよかったことが主な理由とされています。そして秀吉は大津城築城にあわせて、大津城主の公用のために船仲間を組織させました。百艘の船を集めるように命じたことから「大津百艘船」と呼ばれました。
新庄直頼の高札からみる大津百艘船の特権
初代大津城主となった浅野長吉は、大津百艘船に対して五カ条からなる高札を出し、さまざまな優遇措置を認めました。その後も、増田長盛、新庄直頼、京極高次といった歴代の大津城主が、同様の内容の高札を出しています。ここでは新庄直頼の大津百艘船関連高札を例にその特権の内容をみてみましょう。
�@他の港から大津にやってきた船には荷物や旅人は載せない。
�A大津への役儀を務めない船には荷物や旅人を載せない。
�B他浦の公用を務めなくてよい。
�C大津城主の公用船であっても荷物の上げ下ろしについて船頭は行わなくてよい。
�D新庄の家臣が勝手に船を使うことを禁止する。
このように大津百艘船にとっての琵琶湖水運上の最大の特権は、大津から他浦への荷物と人の輸送の独占であったといえます。
琵琶湖水運の公用船手配ルート
秀吉は大津城主の公用をつとめさせるために大津百艘船を組織しましたが、琵琶湖の船を統括する役職として、芦浦(草津市)にある天台宗寺院観音寺の住職詮舜を船奉行に任命しました。その観音寺詮舜と当時大津城主であった新庄直頼宛の秀吉の朱印状が残されています。この内容を読み解くと、秀吉は朝妻と船木からの材木や薪などの輸送は大津百艘船で行い、蔵米の輸送はそのほかの浦船に命じています。この秀吉の命令によって、琵琶湖水運の公用船の手配ルートは、�@大津城主→大津百艘船、�A船奉行→諸浦という2つのコースがあったことがわかります。
秀吉亡き後、関ケ原の戦いが起こり、勝利した徳川の時代へと変わることで大津城も廃城となりました。西軍に味方した観音寺はその責めを問われることはなく、船奉行の職を引き続き安堵されます。また、大津百艘船の特権は江戸時代を通じて歴代大津代官や京都町奉行によって引き継がれていったのです。





※大津城のイラストは滋賀県教育委員会編「国宝彦根城天守・附櫓及び多聞櫓修理工事報告書(1960)」の「大津城天主復元図」を参考にして作成しました。

浅野長吉と豊臣秀吉
羽柴(のちの豊臣)秀吉の家臣であった浅野長吉は、浅野長勝の養女・ややと結婚して婿養子となりました。秀吉の妻・ねね(高台院)も同じく長勝の養女であったことから、秀吉と長吉は同じ舅をもつ相婿(あいむこ)という縁戚関係にありました。
長吉と大津のかかわりは、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いの後、戦功を認められた長吉が秀吉から瀬田を与えられたことから始まります。当初は瀬田城に入り、のちに坂本城主を務めました。そして秀吉の命により、天正14年(1586)ごろ大津城を築き、初代大津城主となりました。
浅野長吉と葛川・伊香立
長吉は天正11年(1583)ごろから、湖西地域の支配に関わります。その中でも葛川と伊香立という地域では、鎌倉時代より境界や山林をめぐる争いが絶えませんでした。
葛川は、相応和尚が創建した明王院があり、現在も天台回峰行の聖地として信仰を集めています。また、伊香立は穏やかな田園風景が広がる歴史ある土地で、『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人といわれている源融を祀る融神社が有名です。
両地域の争いは、長吉の統治期においても続いていました。とくに葛川と伊香立の境にある下立山の利権をめぐって、たびたび対立が起こり、長吉は境相論の裁定を行ったのです。
葛川・伊香立の山境相論
境相論に関する長吉の裁定の様子は、当時の古文書から読み取ることができます。長吉が出した裁定書(八所神社文書)では、まず長吉が下立山の権利を伊香立側に認めています。また、そのあとに出されたと思われる文書では、山林伐採後の焼畑についても従来どおり伊香立に認めています。
一方、葛川側に対して長吉は、伊香立の山林伐採ついては認め、ただし山中の家や畑については葛川の領有であると示しています。このように、伊香立は山林伐採後の畑の支配権があると考え、葛川は家や畑を自らの所有と主張したため、双方に食い違いがあったと考えられます。
長吉はその後にも両者を取り持つ書状を出しますが、溝は埋まることなく後の時代の江戸時代になっても争いは止むことはありませんでした。一筋縄ではいかない領有支配の難しさが分かる事例といえるでしょう。




坂本城の築城から落城、そして再建まで
織田信長は元亀2年(1571)比叡山延暦寺を焼き討ち後に、家臣の明智光秀に坂本城を築かせました。光秀は、城内に琵琶湖の水を引き入れた水城形式の城を築きます。しかし、天正10年(1582)6月の本能寺の変で光秀は主君信長を討ちとりますが、直後の山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、優美で豪壮な姿を誇った坂本城も落城しました。落城後は織田家の重臣丹羽長秀が城主となり、再建を行いました。秀吉は自らが坂本城主になると「天下を狙っている」と疑われるのを避けるため、長秀に城主の座を譲ったといいます。それほどまでに当時の坂本城は、天下の行方を左右できるほど重要な城だったといえます。
杉原家次と坂本城
天正11年(1583)4月には、丹羽長秀の後任として秀吉の家臣杉原家次が坂本城主となりました。杉原家次は、秀吉の正室・ねね(高台院)の母の兄、つまり秀吉の義理の伯父にあたります。
織田政権下では、坂本城が監視の役割を担っていた山門の再興は許されませんでした。しかし、賤ケ岳の戦い後に坂本城が秀吉の支配下となり、秀吉からの厚い信頼を受けた杉原家次が城主を務めるようになると、山門再興の動きが盛んになりました。家次は朽木谷の材木800本を日吉大宮社に寄進するとともに、「坂本御天守用」の大材木100本も一緒に坂本に送るように指示をしています。このことから日吉社の復興と坂本城の普請は同時に行われていたことがわかります。しかし、杉原家次の城主在任は長くは続きませんでした。天正11年(1583)11月、家次狂気の風聞がたち、その後、丹波国福知山城へ転封となりました。家次が坂本を去った後、また秀吉と縁戚の浅野長吉が城主となります。長吉も山門の復興に尽力しましたが、天正14年(1586)ごろ秀吉の命で坂本城は廃城となり、大津城を築城することになります。
現在の坂本城
現在の坂本城跡は昭和54〜57年度に本丸推定地の発掘調査がおこなわれ、光秀と秀吉それぞれの時期とみられる建物跡が見つかっています。地上には遺構がほとんど残されていませんが、琵琶湖が渇水した際には、当時の石垣が湖畔から現れることがあります。「幻の城」と呼ばれる坂本城ですが、令和5年度の発掘調査では、三の丸の外郭と見られる石垣を伴う堀が発見され、大きな話題になりました。そして令和7年9月18日には国指定史跡となり、今後も貴重な文化財として後世に伝えていくことになりました。なお、令和5年度に確認された石垣は、遺構の保護、現場の安全管理の徹底のため、現在は見学することができません。明智光秀が築き、杉原家次など秀吉の家臣たちが城主を務めた坂本城は、近年の発掘調査で少しずつその姿が明らかになってきています。琵琶湖畔にたたずむ坂本城の輪郭がおぼろげながら見えてきたのです。


秀吉の生い立ち・大津とのかかわり
尾張国愛知郡中村(現愛知県名古屋市中村区)出身の秀吉は、幼名を日吉丸といい、はじめは尾張の大名織田信長に足軽として仕えました。弟の秀長や浅野長吉といった家臣たちの支えもあって長浜城主になるなど、信長のもとで目覚ましい出世をしていきます。天正10年(1582)本能寺の変の後、主君信長を討った明智光秀を倒し、政治的・軍事的に主導権を握りました。そして、天正18年(1590)には、ついに全国の統一を成し遂げました。
秀吉は大津を京・大坂と東国の交通の要所として重視したため、坂本城を廃城して、代わりに大津城を浅野長吉に命じて築かせました。また、町を整備するなど大津を都市として発展させたのです。
秀吉と山門再興
秀吉と大津とのかかわりは深く、後年の記述ですが、天保3年(1832)に書かれた比叡山延暦寺案内記の『御山のしおり』には「元亀二年辛未九月十二日織田公の為に焼失なわれて天正十二年甲申 豊臣公之を再興せらる」とあり、秀吉が比叡山焼き討ちによって荒廃した山門(延暦寺)や日吉社の再興したといいます。
秀吉の山門再興については、『天正本山再興記』に次のようなエピソードがあります。延暦寺の僧詮舜が秀吉に対して、秀吉の幼名が「日吉丸」であるため、武将として出世していった様子は朝日が昇るようだといい、日吉比叡がまた輝くことは自然の道理であると説いたと伝わります。こうした詮舜らの説得もあり、秀吉は山門再興を許可する判物(公的証明書)を出したといいます。
秀吉と日吉大社
ちなみに、秀吉が再興に寄与した日吉大社は猿が魔除けの象徴として信仰されています。日吉大社の猿は「神猿(まさる)」といい、「魔が去る」「勝る」といった言葉に通じる縁起の良いお猿さんです。ところで、ドラマなどの創作物で、秀吉が「サル」というあだ名で呼ばれることがありますが、秀吉に謁見した朝鮮人の記録で「秀吉は猿に似ている」とあり、あだ名の通り、猿に似た容貌だといわれることもあったようです。幼名の「日吉丸」や「猿」といった共通点は、秀吉と日吉大社との浅からぬ縁を感じさせます。
大津城の築城や琵琶湖の水運の整備により、大津を東国・北国の諸物資の大集散地として発展させた秀吉は、まさしく大津の町の礎を築いた武将といえます。こういった秀吉と大津のゆかりの場所や出来事を今年は全6回に分けて紹介していきます。

