大津市歴史博物館

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第14回 企画展に寄せられた江若鉄道の思い出

 博物館では、平成18年の夏に企画展「ありし日の江若鉄道」を開催しました。展覧会は、期間中1万3千人を超える方々にお越しいただくことが出来ました。江若鉄道の廃線から40年近くが過ぎましたが、当時江若鉄道を利用した方々は今も多くおられ、会場内では当時の様子を語り合いながら鑑賞される姿が多く見られました
 展覧会では、事前に江若鉄道の思い出や写真の募集を行ない、多くの方々から写真や思い出を頂戴していました。また、展覧会の開催中も、展示を見て思い出されたことなどを自由にお書きいただいて掲示し、観覧者の方々に見ていただくコーナーを設けました。お寄せいただいた思い出は、駅員さんとの思い出や家族との思い出など多岐にわたりましたが、当時の江若鉄道の様子が偲ばれる文章ばかりでした。
 これらの文章は、展覧会終了とともにご覧いただくことが出来なくなってしまいましたが、それではもったいないと思い、お寄せいただいた思い出を皆さんに見ていただけるようと、今回公開させていただくことにしました。これらを改めてご覧いただき、写真や資料だけでは窺い知ることの出来ない「ありし日の江若鉄道」を回顧していただきたいと思います。今回お寄せいただいた文章は、博物館で大切に保管し、江若鉄道の様子を物語る生の声として末永く保管させていただきます。お寄せいただいた方々には、この場を借りてお礼申し上げます。
 なお、公開にあたり個人情報等については非公開とし、一部文字等の修正を加えております。あらかじめご了承ください。

  (学芸員 木津 勝)

江若鉄道の思い出

 私が江若鉄道に入社したのは昭和23年4月でした。国鉄膳所駅に乗入れ実施され3月過ぎで京阪電車と共用。京阪電車は拡軌道、国鉄は狭軌道で3本レール使用。京阪電車はストップ、国鉄優先、1日4往復、これは今の長等市民センター跡には旧日本軍の第九連隊基地。際川に旧日本海軍の航空隊。滋賀の里には今の自衛隊これも海軍航空隊基地があり、これ等皆米軍の駐留軍基地でその食料品確保に水耕農園と云う立派な建物あり、その輸送に滋賀駅から側線で1日冷凍車5両ないし10両の貨物輸送をした事がありました。又元九連隊から朝鮮戦争に参加した米軍の軍隊輸送もあり、膳所乗入れが頻繁に行われました。又現在の京阪電車の軌道付近まで海であり、遠く湖東方面から薪や野菜を運ぶ商業地帯でした。今思い出すと本当に忙しい日々でした。 (男性 江若鉄道OB)

 

 私は9ヶ月の軍隊生活と2年5ヶ月のシベリヤ抑留の生活を体験して昭和22年5月15日に舞鶴に復員して来ました。
 父母の待つ家に帰る途中、江若鉄道浜大津駅でうれしいご親切を頂きました。それは出札を待っている一般乗客の改札を後回しにして、私に「復員の方ですね」との声と共に一番に改札して列車の座席迄案内して呉れました。復員帰りの私をこの様にお気遣いを頂き、お礼の言葉は発車ベルでかき消されて別れたのです。戦後の殺伐とした世相の中に本当にうれしい気持の良い2時間の旅を過ごす事が出来ました。お陰様で待望の何年振りかの親子の対面が実現出来ました。
 又、最近は湖国の雪は少なくなりましたね。昔は大津でも雪降りの度によく雪かきをしたものでした。此の頃は薄化粧程度しか降りません。昔は今津まで行くのにひと駅毎に雪の深くなるのが目立ってたのです。
この頃に雪景色の一句詠んだのを思い出しました。

  安曇川を越えれば 田畑
     銀世界 自然の業の
        不思議さを見る

 それから朝日に輝く白鬚神社の湖面に浮かぶ朱色の大鳥居の美しさは、また格別でした。何とも云えない美しさです。また、琵琶湖だけの漁法のえりは、その涼やかな姿は今でも、いつ迄もいつ迄も眺めている風情があります。江若線が今でも鉄路が残っていて、トロッコ列車が走っていたら、楽しいだろうなと、フッと思い出す事のある、江若鉄道です。 (男性 江若鉄道OB)

 

 昭和26年から27年にかけて父親の仕事(土木会社)の関係で安曇の長尾というところの農家で間借生活をしておりました。昭和24年1月生まれの私が2歳から3歳にかけてですので、よちよち歩きの頃ではありますが意外に記憶は断片的に残っております。
 そこの農家でヤギを飼っていて毎日ヤギの乳をいただいて飲んだこと、焚き付けの枯れ木を拾いに近所の神社に母に連れて行かれたときにイノシシに出くわしたこと、母親の自転車に乗せられ町に買物に出たときに自転車が転んで擦り剥き大泣きしたこと、家の横の小川で夏に蛍が乱舞していたこと、冬の雪下ろしで近所のおじさんが屋根から落ちて大怪我して大変だったこと、、、などなど。
 中でもそこで私の弟が昭和26年の8月に生まれたことが一番の思い出です。
 当時親の実家は岸和田でしたので、時々実家に行くときや京都の親戚に行くには江若鉄道に乗りました。乗るたびに違った種類の車両で、シートの布団の感触を確かめたり窓の大きさを確認したり、そのたびに珍しそうにじっとしていなかったと母親に言われました。
 その江若鉄道がなくなると聞き、学生だった私は昭和43年に乗りに行きました。運転手さんが後ろの車両と連絡するビッビーというブザーの音、がたごと走る乗り心地、ゆっくりと流れる車窓風景に幼い日の思い出を重ねて楽しみました。
 もう、これに乗ることもできなくなるなぁ、というのが一番心残りでした。
 あれから40年近く経った今もあの感触は鮮やかに残っています。 (男性)

 

 青春真盛り40年前の若干25歳独身時代、人生バラ色、毎日毎日乗務(運転)する事が楽しくて仕方のなかった時代であった。機関士と云う職種は沿線の女性に人気があり、列車が駅ホームに進入したら黄色い声が聞こえ、声の方角を見てしまったが為一瞬ブレーキ操作が遅れ、オーバーランと云う運転操作ミスも今だからお話し出来る内緒の出来事でした。尚内緒のお話のついでに如何に江若鉄道がローカル線でのんびりとしていたかという事と小職の事例を3つ程白状しておきます。
 事例1 貨物列車運転中、沿線の柿の実を列車を停車させ、機関助士と採った事。
 事例2 和邇駅始発で駅長、車掌、小職が寝過し、乗客に起こされ運転をしながら服装を整え常務した経験。
 事例3 通過すべき駅を勘違いをして停車。すぐに気がついたがバツが悪いので駅長、車掌には車両点検と偽って応急処置の真似事で説明。
(男性 江若鉄道OB)

 

 思い出の江若鉄道勤務のありし日々をかたる。大東亜戦争の中で昭和16年5月14日大津中央尋常高等小学校卒業後、私は鉄道が好きで地元江若鉄道に就職。試傭として浜大津駅手として、前は太湖汽船で、いろいろな人を見て来ました。戦争ははげしく、青年学校より舞鶴海兵団に入隊して終戦を迎え、無事復員して又なつかしの江若鉄道に再就職しました。戦後は江若鉄道は食料難で、買い出し客がいっぱいでした。列車が浜大津に着と、米や野菜・豆等の食糧品を背中におった客で、又取りしまりもきびしく、警察官等が来て買い出し客のけんか等がありました。又ガソリンカー等は木炭車として、列車ははいを線路に落す作業で忙しい日が続いていました。
 昭和29年時代は車掌として、浜大津から近江今津駅迄往復の乗務と貨物列車で進駐軍の物資を運ぶ滋賀駅側線で機関車と走りをして1日が早くたつ日を思い出します。
 昭和40年頃より助役勤務を命じられ、蓬莱駅等では、カーレータと云う動く道の珍らしい物が登山者等で客が少し多くなり、忙しい毎日でした。又真野駅や雄琴温泉駅勤務の時は客といろいろ口けんかをして、水泳客が切符なしで乗車した時もありました。廃線がきまる昭和44年2月には、浜大津駅最後の助役として勤務する事が出来てやれやれと思いました。湖西線になって親会社の京阪に就職しました。 (大津市 江若鉄道OB)

 

 私は昭和40年に江若鉄道に入社し、三井寺下機関区で、整備士としての仕事をしていました。整備士として車両をいろいろと改造しましたが、その改造のなかでも、あまり知られていないのが、「砂箱」を取り付けた気動車ではないでしょうか。近江神宮あたりの登り勾配はきつく、車両が登れず時々が立ち往生しました。それを防止するためにレール上に砂を撒く「砂箱」を気動車に取り付けました。レールと動輪の間に砂が噛んで滑りにくくするのが目的でした。
 昭和44年の廃線の頃には、売却されていく車両の改造も行ないました。改造した車両とは別れ難く、整備士仲間と惜別の記念写真も撮りました。(男性 江若鉄道OB)

 

 かねてから両親に中学校(現高等学校)へ入らせてほしいと言ってあったが、或る深夜眼がさめたら「行かせてやりたいけどナァ」と話し合っている父母の声が聞こえた。フトンの中で、聞いた私は、断念し高等科へやらして貰った。
 私は次男だが、兄が小学三年生で亡くなったので、家継することになったが「遠くへ行かずにそばに居て老後を見てほしい」と言われてあったので、通勤できる江若鉄道へ入ることにした。
 昭和十年七月、日給六十五銭で採用され、新儀(現新旭)駅勤務となったが、現生存者中一番古いだろうと思っている。勤務は、駅で泊り込みで、四日連続で自炊であった。飯は炊いた事がないので、母から所要事項の指導を受けてはいたが、半煮えを知られないよう梅干や漬物で食べるのは辛かった。休みの一日は、友と枚方の菊人形見物の団体募集で終わる始末であった。駅前丸通勤務の太郎さん、私より五ツばかり年上だろうか、汗を流して荷物集配に感心した。タブレット(衝追突事故防止の単線区間の閉塞方式)が故障したので指導者と書いてある腕章を巻いて列車に乗るように指示されたので、従ったが聞いたらタブレットの玉の代りとの事であった。初回のびわ湖祭には、流線型のガソリンカーの各窓の周囲を造花で飾り夜は電飾してきれいであった。時には先頭座席に大溝(現高島)町選出で和服姿のきれいなお嬢さんお二人揃っての姿を見ることもあって楽しい思いをした。暑い夜は待合室に客のない、列車あいにはホームへ椅子を持ち出して駅長以下雑談し乍らの夕涼みは楽しかった。時には刈り取られた田んぼで芝居があり、テント全体のほのかな明かりと、音楽が聞え情緒があった。約二ケ月で近江今津駅へ勤務を命ぜられたが、此所でも一番新米の職員で、折り返し駅だったので年内の清掃も加わり多忙を極めた。朝の一番列車は終列車の前に到着している列車が出発するので、終列車通過後ポイント転換は私の担当であった。
 ポイントは現在私の住居付近にあったが、少々早く出かけた時はつい居眠りし頭上列車の音にビックリさされて目をさますこともあった。約七十年前の青年時代楽しく勤めた駅舎が今も原形のまま残されているのはうれしく楽しい思いで眺めている。待合室で売店を守る石田のおじいさんは高島音頭の上手な人であったが、父とは親しい仲であり可愛がって下さった。二階は車掌と駅員の寝室であったが私は同級生だが先輩の岸本さんに誘われいつも炊事場向いの二畳位の部屋で同じフトン内で寝たがこれも楽しかった思い出となっている。
 当時盛んに江若鉄道は国に買収されるとの噂が高くなり、私は先に国鉄に入っておこうと志したが国鉄機関は今津にはまだなかったので大鉄局の試験を受け最寄りの大津駅勤務にして貰った。父母には必ず国鉄となった近江今津駅へ帰ってくるからと約束して安心さした。始めて両親を離れての生活であったが、「私は私のものではない期待される両親のものである」と言う事を悟り、楽しい中に精進につとめた。父母の許から通勤できないし、兵隊にとられるまでまだ三年以上あるので、社会勉強もしたいので芦屋、元町とよい所ばかり転勤さして貰って従軍となり、北支に居たが大東亜戦争開戦と同時に師団あげて佛印(ベトナム)へ転進さされたのが運のつきで普通二年の従軍が六年半、而も戦地ばかりと我々同年兵は例のない御奉公を果し復員した。帰れないとあきらめていた祖国への第一歩は名古屋港であった。一泊の翌日列車で大津に向ったが車内は満員であった。なつかしの大津駅へ降り立ち在勤当時の先輩に浜大津駅へ終列車の発車待ちを依頼し背中と両手に不自由していると聞いた砂糖等ベトナムの産物を持って走った。浜大津駅では駅長以下改札口での出迎えを受け恐縮した。終列車の事でもあり車内は矢張り満員だったが、「皆さん御迷惑をかけました」と挨拶したら近くの人が「御苦労様でした、どうぞかけてください、どちらからの復員ですか」と立って席をゆづって下さったので熱いものを感じた。名古屋から大津までの立ちっ放しは辛かったが、古里には熱い情があるのだ、やっと帰った気となったがこのうれしさは今も忘れられない。なつかしの近江今津駅へ降り立ったが、依然江若鉄道のままには失望した。従軍前の元町駅へ復職すべきだが両親の気持ちを察して進駐軍の人夫として働いたが、職場を捨てるのは悲しかった。
 たまたま元町駅から「出勤されないが止めるのだったら提出して下さい」と辞職願の用紙が送られて来た。芦屋駅での後輩が局人事の上位にあることが判っていたので、嘆願書を添付して当地の国鉄自動車へ転勤方依頼したところ「一旦梅小路駅へ出勤せよ、その後において今津へ帰れるように努力する」との便りを戴き、両親を納得さして梅小路へ出勤したが約一ヶ月後今津へ帰らして貰った。希望してから約十三年振りに今津勤務の再現となり感無量であった。以後昇職試験の受験も断り五十五歳の定年まで両親の許で働くことができ幸せであった。永年希望し続けた国鉄の近江今津駅勤務は定年退職の約四ケ月後であったが、湖西線開業から十年間、日本交通観光社の社員として、国鉄バスの乗車券発売で夢を見つづけた近江今津駅内での勤務は大きな喜びであった。(男性 江若鉄道OB)

 

 戦前うまれの私には江若鉄道の思い出がたくさん有ります。
始めて乗ったのは5年生の遠足だったと思います。男の子が線路に耳をあて列車が近づいて来る音を聞き「来たよー!来たよー!」と知らせてくれました。今だったらとんでもない話ですが、まだ見ぬ都会への旅に胸ドキドキでした。
 中学を卒業して就職する時たくさんの友達が駅まで見送りに来てくれました。列車の窓から色とりどりの紙テープを渡してくれ、風でちぎれたテープには「元気でネ」「頑張ってください」等といっぱい心のこもった言葉が書かれていました。涙をポロポロ流しながら働きに出た昭和34年4月2日の事は一生忘れないと思います。  ホームシックにかかった私を故里に運んでくれたのも江若でした。新婚旅行にのり、昭和44年廃線の年に母になりました。
 江若鉄道は私のユメ、希望、そして挫折、涙、悲喜こもごも乗せて走ってくれた列車です。本当になつかしいです。 (高島市 女性)

 

 若かりし頃、江若鉄道には大変お世話になり、比良登山、お月見登山、スキー、水泳と本当に懐かしく想い出されました。特に浜大津駅は当時の私の記憶では、まる−い建物でとっても好感のもてる物だったように想います。数多い資料を出して下さった方々に想い出をたどらせて頂き、ありがとうと言いたいです。 (大津市在住)

 

 父親の実家が朽木村でした。それこそ50年前のこと…毎年夏休みは浜大津から江若鉄道に乗り、安曇川まで行きました。それから市場まで でこぼこ道をボンネットバスに乗り、そして市場からは迎えに来てくれた叔母の道案内で上村まで行きました。早朝に出て…、やっと夕方に着いたように思います。江若の電車からみた湖中の白鬚神社の赤いとりいが「もうすぐ“あど川”や!」という思いをかりたてたのを覚えていますし、なつかしい夏の思い出です。 (大津市在住)

 

 昭和17年2月入社 安曇駅駅手として日給70銭也
以後自動車課(バス)19年現役入隊20年11月復貸局より??社
雄琴駅勤務後再び自動車課堅田バス営業所にて途中−堅田間 和邇−浜大津間を運転 数々のおもいであり10年間の青春ありがとう (大津市在住)

 

 S32−36頃 比良登山の為よく利用しました。比良駅から田のあぜ道を通って161号線に出、登山口へ蓬莱駅から小女郎峠蓬莱山へ、又々 北小松駅から釈迦、堂渇、万会山蓬莱 小女郎峠と総走したものです。 (膳所在住 70才)

 

 昭和22から24年頃、1日に1本午前0:30頃、江若が旧浜大津駅から現JR膳所駅まで運転されていました。亡母の郷里が安曇川、上小川にあったので戦後の食料不足の折、膳所−安曇川を利用したものです。現京阪石坂線(広軌)の1本のレールを江若とが共有しており(江若は狭軌)現在(旧とも)浜大津から京阪膳所駅の対均100本の所までは3本のレールがありました。ここからJR膳所駅まで江若の線が延長され、江若膳所駅がありました。ご在知の方は少ないと思います。 (膳所在住 70才)

 

 なつかしい若い頃の思い出ばかりであの頃に戻りたいです。高校時代から就職と江若とのつき合いは長いので沢山思い出があります。
①毎朝、2番列車に乗って通学していたので車掌さんと仲良くなり、ホームへ走り込むのを見ながら出発の笛を吹かれ、また吹き直され笑い転げたこと
②最終電車で、浜大津でトイレする間がなく乗車。がまんできずに日吉で停車を利用、ホーム寄りにあったから。長い長いおしっこに気がついたら電車(ジーゼル車)のエンジンが止まっていた。あんなに停車していてくれたこと、今もいい思い出です。
③通学の帰りは眠くて、「おこしてや」と車掌さんに言っとけばちゃんと駅手前で起こしてもらえ、楽しかったです。
(大津市在住)

 

 湖西の和迩に住む彼と結婚が決まり、母と二人江若鉄道にゆられて駅名など楽しみながら彼の家に寄せてもらったのが私の最初で最後の乗車でした。その母も98才健在です。母が許してくれるか喜んでくれるか不安で乗り心地も風景も何ひとつ記憶にありません。初々しかった娘時代の思い出です。 (大津市在住)

 

 結婚した相手の勤務先も私も江若鉄道で…鉄道の思い出はそのまま二人の歴史でした。なくなっても心の中にはずっとずっと残ってゆく事でしょう。風景というのは自分の心の中にあるものなのでしょうね。大好きだった鉄道の思いを込めて。 (大津市在住)

 

 昭和16年大東亜戦争が始まった年が私の江若鉄道の初乗り。神戸から下阪本に引っ越して来た友人を訪ねて浜大津から叡山まで乗った時です。以来膳中に入って毎月比良登山に出掛けて行った日々が色々な型をしたガソリンカー、ゲーゼルカー客車等々昨日の如く思い出がよみがえって来ます。膳所駅から浜大津迄の僅か5分程の乗車を楽しむ為に膳所駅で待っていたのは昭和22−23年頃でしたか、記憶は定かでないけどなつかしいね。 (大津市在住)

 

 昭和43年頃、紅葉狩りに比良を訪れる折、江若鉄道を利用しました。小学生だった当時は、京都に住んでいました。錦の秋を行くかわいらしい赤い電車に乗ったことを今も鮮明に思い出します。今は、その湖西に住んで25年。秋が来ると江若鉄道と沿線風景を想い出します。 (大津市在住)

 

 私達姉妹弟4名、皆江若鉄道のお世話になって、それぞれ大津市内の学校へ通いました。私は滋賀県女子師範学校生として、毎年1学期末の7月10日頃から終業式前日まで江若に乗って真野浜へ水泳教室に通いました。私は3年間、遠泳で木の浜から真野浜まで泳ぎつくことができました。機関車の煙と水泳客で鈴なりの乗客の姿も忘れられません。ポアーンとガソリンカーのこだまする懐かしい音も心の底にあり、思い出すといろいろ本当になつかしい鉄道であります。 (大津市在住 88歳女性)

 

 S21年生の私は高校時代にスキーに行くのが楽しみでした(1年に1回位)しか行けなかったが朝一番に浜大津から乗ってもマキノのスキー場に着くのが10時半位でした。少しすべれる様になったと思ったら帰らなくてはならなかった時の事を思い出します。 (大津市在住)

 

 昭和32年生れの私は、幼い頃、大津で生まれているのに、盆、正月は父の故郷の朽木ですごす為に浜大津より江若鉄道に乗った想い出があります。階段のある浜大津駅で「りぼん」や「なかよし」を買ってもらい安曇川まで長い列車の旅でした。琵琶湖ぎりぎりを走る時は寝ていても「白ひげさんや」と起こされたように思います。 (大津市在住)

 

 昭和20年2月10日に舞鶴の中部71部隊に入隊するため、2月4日から会社を休職し、2月6日、母の実家の高島へ行きました。目的は米の御飯を腹いっぱい食べるためです。一泊し2月7日昼すぎ家を出ましたが、俄に空が暗くなり間もなく雪が降り出し駆け足で高島駅へ急ぎました。駅には人があふれ中に入ることもできず、聞けば空襲警報下で運行していないとのこと。2月9日午前8時に国鉄大津駅に集合を命じられていましたのでヤキモキしながら人をかき分けて事務所に入り事情を聞いてもらって運行されるようならば必ず乗せると確約してもらって乗車することが出来、9日は無事集合して翌10日入隊しました。敗戦後はシベリア抑留を体験しましたが江若鉄道は忘れ得ぬ想い出となりました。 (大津市在住)

 

 江若鉄道は、私には非常に懐かしい思い出が多くあります。全国的にみて、当時は全国で一番料金が高い、非常に遅い鉄道だと悪口を言われましたが、今日になれば滋賀県と大津市にとって宝の鉄道であったと思います。
現在の浜大津の現状を見るにご覧のとおりで湖西(高島)の皆さんは皆浜大津で降車しての買い物等、浜大津周辺の商店街は繁栄しました。湖西線による京都、山科への流入と併せて本当に惜しいことです。 (栗東市在住)

 

 私は44才の者です。その昔、たぶん3才頃、昭和38年頃に列車を止めた事が有ります。
線路の中に入り、列車が発車出来なかったそうで、私自身、記憶はありませんが母親から聞いた話です。 (栗東市在住)

 

 私の母の里が饗庭で、お盆の頃、江若鉄道に乗ってよく行きました。祖父母が饗庭駅まで迎えに来てくれ、ワイワイにぎやかな笑い声とともに祖父母の家まで歩きました。従妹たちとも饗庭駅付近で遊びました。その頃は滅多に列車も来ないので、のどかな駅で、いつまでも日が落ちるまで過ごしました。
もう40年程の月日が経ちましたが、懐かしい江若鉄道とともに、私の幼い頃の思い出もいつまでも心に残っています。今日は夫と末娘と来ました。懐かしさで、あれも、この景色もという感じで、楽しい一時を過ごさせていただきました。 (高島市 女性)

 

昭和42年(1967)、西宮から親に連れられ、北小松へ泳ぎに行った時、浜大津−北小松間で一往復だけ乗りました。丸い先頭の形が印象的でした(キハ15.19型だったのでしょう)浜大津で自分の車両が混んでいたので隣の車両へ移ろうとしたら、連結の上に通路がなく、窓の向こうに隣の車両がゆれていた光景が目に焼きついております。 (京都市在住 45才)

 

 私が中学生の頃にお年玉の小遣いで浜大津から北小松まで一人で乗りに来た事を覚えております。運賃は確か180円だったと思いますが、京阪沿線に住んでいる私としては距離と運賃の差が高いなと感じていました。乗った車両は先の丸い6枚窓のガソリン車、ゴトゴトのどかな田園地帯を走っていた頃がなつかしいです。膳所駅付近に昔の国鉄と線路がつながっていた名残がありますね。今回、訪れてみてあの頃に戻ってみたい気持ちです。 (京都市東山区在住)

 

 私は1967年生れですので江若鉄道は実物は見たことがないですが、話で聞いたり写真で見たりして大ファンです。昔ながらのどかなローカル鉄道。見ていると心がなごみます。私もこの時代にもどり乗ってみたいと思います。今の湖西線はあじけないです。(全線高架ですから)本当に廃線になって残念!!また、展示会を御願いします。 (京都市在住)

 

 私は44才の者です。京都に住んでいます。残念ながら江若鉄道の記憶はほとんどありません。現在湖西線になっていますが、もし江若鉄道が敦賀まで伸びていたら、今の湖西線はなかったかもしれません。家は車がなく、夏の水泳などは電車でいっていました。京都と浜大津を結ぶ京津線は記憶がありますが、江若鉄道の記憶はありませんが、美しいびわ湖、のどかな田園風景の写真を見ると感動します。 (京都市北区在住)

 

 昭和37年−昭和40年にかけて私は白鬚の母の親元で学生時代にアルバイトをしていたが毎日路線を走る江若鉄道を見ながら過ごしたことが大変になつかしい想い出として残っている。白鬚神社の前にある石垣の上から列車が来るのを見て、見送った事が今でもまぶたの中に残っている。又、幼少の頃より小学生3年まで鵜川ですごしたので大変になつかしい思いがあり、この「ありし日の江若鉄道」展は非常によかった。 (京都市下京区在住)

 

 昭和44年の時、小学校1年の時でした。安曇川駅から浜大津まで又、乗り換えで、京阪電鉄東山へ京大病院(耳鼻科)まで入院手術の為 母親と私の為毎月2−3回連れて来てくれた、江若鉄道へびわ湖、比良山眺め見ながら今もハッキリ覚えています。(当時4才頃) 故郷、安曇川です。湖西線開かれた時小学6年でした。昔、江若鉄道に乗った思い出忘れません!! (京都市山科区在住)

 

 昭和40年から44年の毎夏 わに浜→浜大津を水泳のため乗車。「たたみ敷の電車に乗った」のが私の自慢やけどほとんどの人に信用してもらえない。残念やったけど 今日見られて嬉しい。 (京都市在住)

 

1、昭和30年代 家族(父母子供3人)で近江舞子へ水泳に行き乗車、最前列からの眺めは線路に草が繁り、気動車は左右にユッサユッサ揺れておりました。懐かしい思い出。
2、後年、廃線後歩きが趣味となり再び江若詣が始まる。湖西線からはずれた真野、北小松、高島付近は今も名残があり、近江今津駅跡は確か農協関係の店舗になっていた。廃線跡を聞きに入った民家の主人が江若に務めておられ、急の用事の時は列車が庭先に止まり これで出勤した、との話も聞いた。時間の流れがゆっくりしていた時代でした。
3、江若の時代を知る人も知らない人も交流する貴重な場となった今回の展示に感謝します。
(京都市在住 59才男性)

 

 私は40年前(16才)にはじめて江若鉄道に乗り高島まで行きました。その時の列車のたぶんニュートラルでのレールの継ぎ目の音がいまでも身体にしみついています。その音にあこがれ長年の「ゆめ」でありました。1/1軌道(38.1cm)の気動車を作っています。約60%できましたが体調が悪く中断しています。なんとか年内に試走したいと思っています。 (京都市伏見区在住 男性)

 

 昭和の10年前後、柳ヶ崎水泳場で泳いだ想い出なつかしい。浜でさぐると鳥貝などよくとれた。 (京都市右京区在住)

 

 残念ながら江若鉄道が走っている記憶はありません。わずかただひとつ、びわ湖に泳ぎに行った帰りに和邇駅前のふみきりを渡ったことだけ…。和邇駅前のパネル写真を見て、その景色が記憶どおりであったことに少しおどろいております。
 昨年亡くなった母の実家が高島市(高島郡饗庭村って言ってました)にあって、帰省の時にいつも江若鉄道に乗っていった話を子供の時によく聞かされたものです。「古いボーギー車に乗ってなあ、ゆっくりゆっくりでなあ、汽車がけむりはいて走るんや、トビラなんかついてへんのやで…。」本当でしたね!ありがとうございました。 (京都市下京区在住)

 

 若狭への海水浴へは京都から京津電車に乗り、浜大津へ出て、それから江若鉄道にて今津まで、それから国鉄バスで若狭へ到着。まる半日以上はかかったかと思います。その時の国道は未舗装でまさしくホコリをかき立て走っていました。お別れが近づき、江若鉄道を乗りに行き浜大津−今津間を往復しました。そのときは、まだ18才でした。その風景が昨日のように思えます。 (京都市在住)

 

 子供の頃…といっても小学校低学年時代ですが…少し前に父といっしょに行った江若京阪「浜大津」の駅が見たくて一人で来た記憶があります。(親がOK出してくれました。)枚方に住んでいた私にとっては、京阪電車1本で来れたので、割りに近く感じる場所でした。京阪の浜大津の2つの駅舎と江若鉄道の駅舎で一日すごしていました。
また、父が撮った江若鉄道の写真を見せてもらった記憶があるのですが…死後見つかりませんでした。お気に入りだったので天国まで持って行ってしまったのかナー (枚方市在住)

 

 S43年に大阪市内のK電気工事会社に入社。当時会社は交通費全額頂いていました。私は京阪電車で、当時定期代3千円程度でした。同僚はマキノから江若鉄道で通うという体で、定期代を3ヶ月で5−6万円だったと記憶しています。実際は市内で寮生活をしていましたが、その金で年間にすると当時ブルーバードとかセドリックとか買えたようです。私は軽自動車に乗るのが精一杯だった。当時の給料は3−4万円位。いかに江若鉄道の賃金(運賃?)が高かったことか。でも友人は良い目をしたと思います。列車でいうと自動ドアーでなくて手で開けていたと思います。止まる前に勝手に開けて飛び降りる学生も多くいました。今から思うと随分のどかな風景だったとなつかしく思いました。                                     (大阪市在住)

 

 鉄道に乗った…という思い出はないのですが、当時小2の私の友達の家が浜大津で、家の裏に線路が通ってました。(すぐちかくに駅です)廃線となったあと、人のいない駅やしずまりかえった線路であそんでいた事覚えています。なんか、とてもさみしい光景だった記憶だけのこってます。 (堺市在住 女性)

 

 昭和30年頃まで和邇駅から歩いて姉の住む龍華まで歩いて会いに行きました。いろいろの思い出があります。あの頃は母も姉も居てよかった今でも江若鉄道と呼んでます。 (高槻市在住 女性)

 

 私は1967年まで大津に住んでいました。石坂線の綿駅が最寄り駅でした。当時浜大津の湖寄りにもう一つ、電車がある気がしていて気になっていまいした。当時私は3歳。自由に行動出来るわけがありません。今、妹は電車好きの息子(同じ3歳)をマメに連れているのを見てうらやましくなります。
P.S 現役の車輌には乗れませんでした。1984年岡山臨港鉄道で乗りました。しかしこの鉄道もその年廃止となりました。 (高槻市在住 男性)

 

 なつかしい写真の数々 高校生の頃 和邇−浜大津まで夏の日、冬の日、通学したこと思い出します。冬、デッキに立ったまま満員の車輌「寒かった」こと本当になつかしい。もう一度あの頃にもどりたい!!(でも無理) (大阪府在住)

 

 私の母方の里は石山で、幼い頃よく車で国道161号を遊びに連れて行ってもらいました。子供心に並走する線路が気になってしかたなく、列車が来ないかと心待ちにしたものです。白鬚神社では湖のすぐそばにレールがあり びっくりしました。しかし列車と出会うチャンスはありませんでした。廃線の年の夏、母と祖母に連れられ「無くなるから乗ろう」と堅田−浜大津に乗車したのが最初で最後でした。発車まぎわにホームに走り、列が待ってくれていたのを思い出します。車内はとても混んでいて十分景色を見ることはできませんでした。また島ノ関(京阪)で夜、電車を待っていた時 江若の貨物を引き取ったハチロク(蒸気機関車)が通過してびっきりしたのもなつかしい思い出です。
 江若が白砂青松の琵琶湖湖畔を快走したあの頃に帰りたいです。今も車中から白鬚神社の鳥居を見つつ乗れなかったのが残念無念でなりません。しかし死ぬまで私の心の中で江若鉄道は走り続けます。ほんとうに夢のような鉄道でした。 (豊中市在住)

 

 残念乍ら、現職時代の江若鉄道については、浜大津駅の踏切で紅とクリームの湘南窓の車輌が行き過ぎるのを見たのが唯一のものです。今から思えば熊延のジハだったのでしょう。江若の車輪については私にとって謎の多い魅力的なものが多く、系統だった書籍が欲しい処です。何故、最晩年にあの様な矢鱈大きな車輌番号を付けたのか?キハ07を2両、わざわざ台枠まで切ったのか、端面をフラットにして、あまつさえ完全な中間本まで継いで3両固定編成を作った理由とは?Hゴム多用のやぼったい新造、改造車達…。 (吹田市在住)   昭和44年生れの私にとって、江若鉄道に対しては思い入れがありません。でも、今年7月に初めて訪れたアクア琵琶館内にあった「ありし日の江若鉄道」のチラシを読んで、湖西地区に鉄道開通させるのがどれだけ苦労したかを知り、今日(8/15)貴館に足を運びました。
 それにしても、江若時代の浜大津駅周辺(特に昭和30−40年代)、私の年代から見るとやはり想像がつきません。 P.S.多少雑な時ですみません。 (西宮市在住)

 

 小学生の頃でした。本でしか知らなかったのですが、当時 剣道の合宿で堅田に来た際、線路の跡らしきものをみつけて小学生の身には未知なる鉄道(過去に去ってしまいましたが)に思いをはせたことがあります。あれから25年、趣味活動かそれ以外でびわ湖に来る度に思い出さずにはいられません。 (葛城市在住)

 

 昭和44年の7月 中学3年生の小生は三重県から江若鉄道に乗るために、大津にやってきました。浜大津からキハ5122+ハフ5010+キハ5121の三両編成になりワニまで大雨になりました。その後真野へ戻り、キハロのギャーが入らないのにビックリ いろんなキップを買い、写真をたくさん写しました。そのころがよみがえりました。ありがとう。 (津市在住 男性)

 

 私は昭和12年小学校6年のとき、大溝駅(今の高島町)の近くでキャンプをした。時速は30km位で単線のため駅で待たされた。比良山、近江舞子の水泳場もよく行った。江若鉄道はレールのソバは雑草が生えていた。
船で水泳場に行く上りは速かったので江若鉄道を利用した。ガソリンカーなんかは勿論戦前はなかった。急行もなく、ゴットンゴットンと走り、仲々面白かった。私は現在宇治在住で80才ですが、長い間京都に住んでいたのでスピードの時代となったが比良リフト、ロープウエイも数年前廃止され、昭和35年後まで比良駅から歩いて登山武奈獄・望武小屋で泊ったこともあります。ゴットンゴットン時代がなつかしい。 (宇治市在住 80才)

 

 先日、8/8に83才で天寿を全うして、この世を去った父に、はるか昔。昭和38年−昭和40年頃、家族で夏休みのレクレーションに、小松浜まで、海水浴に連れて行ってもらいました。当時は、車内は冷房設備がなく、1日琵琶湖で泳ぎ楽しんで帰る時、くたくたの体で車内暑かったのを今、54才になる私は、その頃を、ハッキリと覚えています。とてもなつかしい思い出です。 (女性)

 

 わたしは、ここにきて、むかしのえきのことをよく知りました。わたしは、はじめは、でん車のことはきょうみがなかったけど、ここにきたらきょうみが しん×2になりました。むかしは こうしゃくてつどうだったけとJRになって、えきが今のように、なったんだなーて思いました。お父さんがでん車のことものしりだから、よく聞いていました。いっかいから上ってきて、こんなのが2かいにあったんだなーっておもいました。 (8歳)

 

 むかしぼくのおばあちゃんが、こどもだった ぼくのおとうさんたちと わにへおよぎにいくときに のったそうです。きょうはおばあちゃんといっしょにきました。 (男性)

 

 昭和の思い出江若鉄道、小浜まで延びると思っていた。昭和40年に日吉駅前に土地を買い家を建てようとした矢先、廃線となった。小6に安曇川へ自転車で行き帰りに自転車ごと乗せてもらったり、比良登山の帰りに鈴なりの車輌でデッキにつかまり帰ったり、お座敷列車ってなかったっけ?のったような?山行きのときはアルプス一万丈のかえ歌で江若鉄道フルチュで乗って連続払ろたと大いばりと大声で歌ってくれた。 (男性)

 

 京都駅の地下道でこの企画のポスターを拝見しました。私は昭和36年−39年迄3年間高校通学に江若鉄道を利用させてもらいました。主人とは昭和43年2月に結婚しましたが、主人も江若鉄道に乗って婚約時代遊びに来てくれたのでなつかしい様子でした。今日は2人で京都市内から見学に来ましたが、高校の通学時の列車の増結など様々の様子が思い出されました。(学期試験の終わりの時刻に合わせて生徒が多数乗車する為) (女性)

 

 私は江若鉄道廃止後に生まれ、江若鉄道の事は安曇川出身の父から時々聞いただけです。去年、京阪のレールウェイフェステイバルで江若鉄道廃止記念乗車券を買い、父に見せた所、昭和3年の安曇川駅の写真があり、その当時父は生まれてはいなかったが駅の様子や思い出を話してくれました。
見学者を見るとお年寄りが多く、当時の事をなつかしく話していたのが印象的でした。 (男性)  高校時代一年に一、二度、比良山系へ植物採集に参加時、江若を利用。良く車輌点検と呼して途中で止まりました。20分30分遅れは常でした。でも乗客達だれも文句一つ言わなかった。いい時代でしたなあ。 (男性)

 

 中学と高校の6年間江若鉄道に世話になりました。叡山駅の駅長さんが大変親切な方で寒い夕方には駅長室へ入れてくれて、ストーブの傍で列車を待たせてもらったことを思い出します。冬の夜 車窓から見た月光に輝く湖面が印象深く眼底に焼きついています。この6年間が私を作っている様に思われます。 (67才)

 

 小学校から毎年 眞野浜へ浜大津港から水泳に太湖汽船に乗って参加しました。安曇川を渡って、中江藤樹先生の小川村へ見学に、先生につれられてもらいました。井戸を見たのを覚えています。学校から行きました日帰りでした。
 昭和18、19年ころ止まらない駅があり大阪の学校へ行く荷物を送りに日方駅まで行ったか汽車が止まらず 次の駅まで歩いて持って行った思い出。又大雨が降れば汽車が坂道を登れず止まった思い出。夏は和邇駅まで良く行った 母親の家になるので夏休みはいつも和邇駅で下車。
小松まで水泳に家中で行った思い出。たくさんありがとうございました。 (77才女性)

 

 京都で生まれ育った私にとって、水泳行の多くは琵琶湖で、江若鉄道のガソリンカーが、自動車中心の時代まで、交通手段だった。時は昭和20年代、若き両親が友人達と行った近江舞子。その湖岸で撮った写真にある父の姿の若いこと。カンの虫を??し、心が不安定だった私が背後を通る江若の蒸気機関車の警笛に脅え大泣きしたこと。それを父が一生懸命あやしてくれたこと。それらが美しい松林と共に最も古い思い出として幼き記憶を構成しています。
 その両親も他界して早16年経ちました。 (57才)