大津市歴史博物館

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第35回 大津百町に残る防火水槽

   最近はあまり見かけなくなりましたが、町歩きをしていると家の軒下にコンクリートの四角い水槽のようなものを目にすることがあります。注目する人はあまりいないと思いますが、実は戦争を物語る貴重な遺物なのです。太平洋戦争時、日本には木造の家が多くあったので、アメリカ軍は焼夷弾(しょういだん)を落として焼き払おうとしました。このような空襲に備えて、水を溜めておいた容器がこの水槽なのです。防火水槽、防火用水、防空用水などと呼ばれています

1 典型的な防火水槽 2 脚部に唐草文をあしらった粋な防火水槽

   本土への空襲は昭和17年4月から始まりますが、大規模な空襲は昭和19年6月の北九州爆撃からで、その後大都市・主要工業地帯を中心に激化していきます。大津市に対する最初の空襲は、昭和20年7月24日に実施された石山の東洋レーヨン滋賀工場の爆撃でした。ここに投下された爆弾は、投下訓練のための原爆模擬爆弾(パンプキン爆弾)だったのです。また、7月30日には、下阪本の滋賀海軍航空隊にロケット弾14発が投下され、さらに別所の大津陸軍少年飛行兵学校にもロケット弾5発が投下されました。空襲の激化に対して防空体制は強化されましたが、8月14日、日本はポツダム宣言を受諾し、敗戦を迎えます。
 防空に関するマニュアルである『時局防空必携』(昭和16年12月10日発行)には、家庭のふだんの準備として水を「普通の家では、一戸当り約百リットル(約五斗五升)以上。大きな家ではもっと沢山」用意するように記されています。そして、その容器として「天水桶、貯水槽、風呂桶、盥(たらい)、バケツ等」を使用し、用水として「井戸水、池の水及び流水の利用」を進めています。また、設置する位置については、「使用に便利な所を選ぶ」ように指導しています。さらに、昭和18年8月10日発行『時局防空必携 昭和十八年改訂』では、家庭で準備する水として、「建物延坪十五坪未満は百リットル(約五斗五升)以上、十五坪以上は概ね十坪に付き五十リットル(約二斗八升)の割合で増加する」ように記されています。建物の規模により準備する防火用水の量が定められ、昭和16年の時よりも細かな規定となっています。また、設置場所についても「家の構造や待避所の位置等を考えて、何処に焼夷弾が落ちてもすぐ間に合う所に配置する」としています。戦況が悪化し、本土の大規模空襲がより現実的になってきたことによる改訂でしょう。  それでは、大津市内ではいつごろから、この防火水槽が設置されたのでしょうか。戦時中の回覧板などの膨大な資料を含む『山田実家文書』の中に「防火用水溜注文者」という文書が残っています。これによると、大津百町の一つである太間町では、昭和18年に町内会を通して各戸で防火水槽(防火用水溜と呼んでいます)を購入していたことが知られます。いつどこから空襲されるかもわからない緊迫した状況になり、各戸に防火水槽を設置したのでしょう。
 防火水槽はこのような戦争を今に伝える貴重な遺物であるにもかかわらず、あまり省みられることなく、知らず知らずのうちに消滅しつつあるのが現状です。そこで、ここでは大津百町に残る防火水槽のいくつかを紹介してみます。

3 正面に陽字の「水」を配した防火水槽 4 底部に脚の付かない防火水槽

5 底部の二辺に細長い脚が付く防火水槽

 防火水槽の形には箱形のものが多く、底部は平底で脚が付くものと付かないものとがあります。正面に「用水」や「水」と書かれたものもあります。また、防火水槽の容量は、調べてみると防火水槽の上面まで満水にして100から150リットルのものが多いようです。これは、『時局防空必携』に規定された100リットルを基準にして防火水槽が造られたためでしょう。
 大津百町では、現在のところ、十数か所で防火水槽を確認しています。ぜひ、町歩きをしながら探してみてください。発見したら、きっと何かを感じることでしょう。

(本館学芸員 青山 均)