博物館の活動紹介
第50回 幕末膳所十一烈士の遺品
慶応元年(1865)閏5月、膳所藩の尊王攘夷派が逮捕、投獄されますが、それは、長州征討に向けて将軍・徳川家茂が上洛する途中での出来事でした。家茂上洛の次第は『続徳川実紀』に記されていますが、それによると、閏5月19日、家茂一行が愛知川の河川氾濫によって足留めされていた時に、明後21日、膳所城に泊まる予定だが、「御都合」もあるので大津宿に宿泊する、と通達されたことが分かります。膳所藩尊攘派の逮捕は、それより5日前の閏5月14 日に始まり、11 名の藩士が揚り屋(未決囚の監獄)に入れられたのです(『殉節緯』)。彼らは、日頃から攘夷の旗頭であった長州と通じていたことから、長州征討のために上洛する徳川家茂を阻止する動きがあったとしても不思議ではありません。ただ、阻止するために、瀬田橋に仕掛けた「地雷火」を発火させ、その騒動に乗じて「玉躰(天皇)を十津川え供奉」する計画があったとか(『中山忠能日記』)、地雷火を仕掛けたのは膳所泊城中の将軍の寝所であったとか、釣り天井を設けたなど(『懐郷坐談』)、にわかには信用しがたい計画が噂として流れていたのです。また、その方法はともかく、上洛を阻止する計画があったかどうかさえ不明です。ただ、膳所以外で将軍上洛をめぐって不穏な動きがあり、家茂が彦根城に泊まっていたときにも、「防長賊徒」どもが、本国を脱走し諸所に潜伏しているという噂もあるので、見付け次第速やかに取り押さえ、または打ち捨てるように、といった通達が出されていたことも確かです(『続徳川実紀』)。
さて、このとき逮捕されたのは、保田正経、田河武整、阿閉信足、槙島光明、森祐信、高橋正功、高橋幸佑、関敏樹、渡辺緝、増田正房、深栖當道の11 名で、10 月21 日、うち身分が上位であった保田、田河、阿閉、槙島の4名が切腹、その他の7名は斬首となったのです。逮捕されてから処刑までの5ヶ月(保田・田河・阿閉は4ヶ月)、彼らに対しどのような取り調べがなされたのかも不明ですが、獄中で認めた遺書や辞世の句などが膳所藩資料館(大津市御殿浜)に伝えられています。その中には、筆と墨ではなく、紙撚を張り付けて和歌や漢詩を綴ったものが含まれていますが、紙撚字については、別に烈士のご子孫から歴史博物館にご寄贈いただいたものが収蔵されています
また、烈士の一人高橋幸佑は、紙縒ではなく、なんと糸を張り付けて綴った長編の和歌を折帖本に装丁し、表紙題箋に紙撚字で「玉手箱」の標題を貼付したものを遺しています。また、松の巨木や蓮の華、富士山、朝日などの絵も、紙縒や糸によって「描いて」いるのです。死に臨んで遺した、烈士の鬼気せまる作品の数々です。
(本館館長 樋爪修)
膳所藩烈士紙縒字短冊 慶応元年(1865) 本館蔵
慶応元年に逮捕、処刑された烈士が遺した紙縒字の和歌短冊です。写真には、述懐と題した増田正房の和歌、高橋正功の漢詩と同幸佑による梅花図などが見えています。
糸文字の和歌 作・高橋幸佑 膳所藩資料館蔵
縦16.2 ㎝、全長117.0 ㎝の折帖本の冒頭部分。