学芸員のノートから
第54回 『京津電車御案内 吉田初三郎画』を絵解きする
《 目次 》
- 1 沿線案内を読み解く楽しさ
- 2 京津電車について
- 3 京津電車御案内を絵解きする(表紙と裏表紙)
- 4 京津電車御案内を絵解きする(札ノ辻駅〜長等公園下駅)
- 5 京津電車御案内を絵解きする(長等公園下駅〜追分駅)
- 6 京津電車御案内を絵解きする(追分駅〜日ノ岡駅)
- 7 京津電車御案内を絵解きする(蹴上駅〜三条大橋駅)
- 8 沿線案内の楽しみ方
1 沿線案内を読み解く楽しさ
令和元年度に大津市歴史博物館に寄贈いただいた資料のなかから、『京津電車御案内』をご紹介します。この資料は、「沿線案内」などの名前で、鉄道や船といった交通各社が制作した、今でいう観光パンフレットです。大正末から昭和初期にかけての日本は、鉄道網の整備によって、空前の旅行ブームが訪れます。こうしたなか、沿線の名所旧跡を地図やイラストを用いて紹介することで、地域に観光客を呼び込もうと、各社はこうしたパンフレットを競って作りました。
沿線案内を描いたのは、自らを大正の広重と称した吉田初三郎(1884〜1955)です。はるか遠くの場所までを1枚の地図に落とし込む、パノラマ鳥瞰図(バードビュー)の技法に得意とした人物ですが、この沿線案内は、彼が鳥瞰図絵師としての画風を確立する前に制作した珍しいもので描き方が全く異なります。とはいえ、手書きのイラストマップのような沿線案内は分かりやすく、初三郎の表現力の幅が感じられる、見飽きない作品です。
本稿は『京津電車御案内』をみなさんが手に取って見ているようなイメージで、資料を隅々までじっくり絵解きしようという試みです。江戸時代に東海道沿いに栄えていた各駅には、どんな名所旧跡があったのか、また、この鉄道や駅がどのように変遷したのかにも触れながら、大正時代の大津〜京都間の沿線風景をご紹介したいと思います。
なお、この内容は、もともと新収蔵品展(2020年5月〜6月)の期間中に、関連講座(れきはく講座)としてお話ししようと企画していた内容の資料紹介部分を文章化したものです。そのため、インターネット上で掲載するには、少し長い文章になってしまいました。冒頭の目次を手がかりに、興味のある部分だけでも、ご覧いただければ幸いです。
京津電車御案内 吉田初三郎画(表面) 大正時代 大津市歴史博物館蔵
京津電車御案内 吉田初三郎画(裏面) 大正時代 大津市歴史博物館蔵
2 京津電車について
今回ご紹介する京津電車は、正式には京津電気軌道株式会社(以下、京津電車で通します)といい、現在の京阪電鉄京津線・京都市営地下鉄東西線の一部にあたる路線を最初に開通させた鉄道会社です。浜大津と京阪三条を結ぶ京阪電鉄京津線が、平成9年の地下鉄東西線の開通によって、現在のようなルートになりましたが、古くから大津と京都を結ぶ、地域の人々に親しまれた鉄道だといえます。
大正元年(1912)8月15日、京津電車は札ノ辻‐京都三条大橋駅間に、鉄道(電車)を開通させました。大津−京都間には、明治13年(1880)に官設鉄道、つまり現在のJR東海道線がすでに開通していました。ただし、現在のJRのルートとは違い、当時の線路は逢坂山を越えると、山科の南(勧修寺)から伏見あたりまで大きく迂回していました。大津市内には、旧線時代に使われていた旧逢坂山トンネルが残っていますし、逢坂山トンネル以西のルートは、現在の名神高速道路のルートを想像していただくと分かりやすいかもしれません。長いトンネルを掘る技術がなかった明治10年代の日本では(実際、旧逢坂山トンネルは初めて掘った鉄道用山岳トンネルでした)、技術面からこうしたルートしか敷設できなかったわけです。
参考資料として、明治時代の大津〜京都間の時刻表をお見せしておきます。上の部分の概略図をみると、当時のおおよそのルートが想像できます。
《参考》京都・大津間汽車時刻及び賃金表 明治時代 大津市歴史博物館蔵
京都部分の拡大(京都・大津間汽車時刻及び賃金表)
大谷からは、現在の名神高速道路あたりを線路は進み、稲荷から今の京都駅へと線路(奈良線)が伸びていました。
大津部分の拡大(京都・大津間汽車時刻及び賃金表)
旧逢坂山トンネルを越えた線路は、馬場駅(膳所駅)で折り返して、湖岸を大津駅(浜大津)まで伸びていました。
官設鉄道の開通によって、大津〜京都間の行き来が便利になる一方、江戸時代ににぎわった旧東海道に沿いの人々は、線路が遠く離れてしまったことで、不便や経済的な打撃をうけました。こうしたなかで計画されたのが、旧東海道に沿って敷設する新しい鉄道敷設計画でした。明治20年代に、一度鉄道の敷設計画が持ちあがったのですが、この時には挫折。その後、明治37年(1904)に村田虎次郎大津市長と大津商工会議所を中心とするグループが、京津電気軌道株式会社として、大津市御蔵町(今の浜大津あたり)と京都市下京区三条通大橋町117番地先(三条大橋東詰)の間の鉄道計画を政府(内務省)に出願しました(鉄道は政府の特許〔認可〕がないと敷設できません)。
ところが、同時期には日本最初の電気鉄道を開通させた京都鉄道株式会社(のちの京都市電)と大阪の近畿電鉄も同様の計画を出願しており、合計3社が競合する状態になってしまいました(当時はこうしたことがよくありました)。政府は調停のため、いずれの出願も却下して3社合同での敷設を勧告しますが、話し合いの結果、最終的には京津電気軌道に京都電気軌道が合流することで落ち着きました。認可は明治40年1月24日、こうして大正元年に京津電車が開通することになったわけです。
3 京津電車御案内の絵解き(表紙と裏表紙)
では、いよいよ沿線案内の中身を鑑賞していきましょう。この沿線案内は9つ折りで、たたんだ時に表面の右2面が表紙と表紙裏になる体裁で作られています。3面目以降が沿線案内の中身にあたる部分で、大津側の起点である札ノ辻から追分までが表面、そして、追分から三条大橋までが裏面に記されています。丁度、大津(近江)と京都(山城)との境が折り返し地点になるわけです。
表紙の構成はイラストとタイトルのみのシンプルな構成。イラストは、三条大橋から乗り込む人々の様子が描かれています。舞子さんや芸妓さんの姿も見えます。服装は、女性は和装、男性は洋装の方が、やや多いでしょうか。また、タイトル文字の上には手書きで社章が記されています。社章は丸にKではなく、大津(O)と京都(K)を結ぶという意味だと思われます。ちなみに、かつて湖西を走っていた江若鉄道(交通)の社章は、近江(O)と若狭(W)を意味しています。
京津電車御案内(表紙部分)
表紙裏には、賃金表が記されています。京津電車区間の最低運賃は3銭、最大運賃は17銭で、往復割引がありました。また、規定の料金を支払うと、貸し切り乗車もできたようです。そのほか、京阪電鉄との連絡や琵琶湖を運行する汽船との連絡切符も紹介されています。汽船の切符は、近いものでは膳所、遠くは竹生島までと、様々な港の名前が記され、電車から船への接続が場所を割いて紹介されています。
そして、特筆すべきは下段に記された「京津電車の四大特色」です。文字に起こしてみると、
【京津電車の四大特色】
・京津電車ハ実用的電車ニシテ、京津間枢要ノ場所ニ着シ、双方ヨリ絶へず発車ス
・京津電車ハ遊覧的電車ニシテ、沿線名所旧跡ニ富ミ湖山ノ風光頗ル佳若シソレ京ノ秋琵琶ノ春ニ至ッテハ天下ノ絶景ナリ
・京津電車ハ船車ノ連絡豊富ニシテ、交通ノ福音ヲ遺憾ナク発揮ス 湖上ノ観光及江州穴村ノ灸ニ赴ガルル旅客ハ、最モ便利ナリ
・京津電車ハ大津大阪間連絡切符ヲ発売ス 京阪・京都・京津ノ三連絡ニシテ片道三日間、往復七日間ナレバ便利此上ナシ
ここで京津電車の特色として強調されているのは、@市街地とのアクセスの良さと発車回数の多さ、A遊覧場所の豊富さ、B船との連絡の良さ、Cアクセスの優位性です。こうした部分を特色とあえて強調しているのは、競合する東海道線と比較してのことだと思われます。
実際、東海道線と比較して、ルートや駅数の多さ、電気で走る鉄道であることの便利さ(東海道線の同区間の電化は昭和31年)を考え合わせると、京津電車の開通は地域の鉄道として非常に便利な乗り物の誕生だったことが想像できます。
ちなみに、この京津電車御案内は、大正9年の料金改定にともなって、裏表紙の料金表だけが差し替えられた版が他に存在することを確認しています。今回ご紹介している資料は、初版にあたるものだと思われますが、正確な制作年代は不明です。本文中で紹介している施設に、大正2年に開館した長瀬貝類博物館があるため、大正元年の開通と同時に作られたものではない可能性がありますが、いずれにせよ、それに近い年代に際制作られたものだろうと思われます。
4 京津電車御案内を絵解きする(札ノ辻駅〜長等公園下駅)
本文部分です。沿線案内は、京津電車開通時の大津側の起点である札ノ辻駅から始まっています。沿線案内に採りあげられている史跡や名所は、原則として駅周辺に限られますが、スタート部分で紹介されている場所は、雄松浜(近江舞子)や浮御堂など、広く琵琶湖周辺の名所旧跡を網羅して照会されいます。これは、京都からやってくる乗客を広く琵琶湖周辺の行楽地に目を向けさせるためだと思われます。また、札ノ辻から連絡する大津電車(現:京阪電鉄石山坂本線、当時は別会社)や、大津を発着する汽船との連携も、イラストでさりげなく紹介し、便利さをアピールしています。
ちなみに札ノ辻駅は、現在のびわ湖浜大津駅と上栄町の間にあった駅です。これは、開通当初は上栄町以北の併用軌道(車と共用している線路)が、途中で道幅が狭くなっていて、線路が敷けなかったためです。道幅が拡げられ、浜大津へと線路が延伸するのは、大正14年5月のことです。
本稿では、絵解きという趣向で資料をご紹介していますので、沿線案内に書かれている文字を書き起こしておきます。イラストがあちこちに散らばっているため、順不同になりますが、読みづらい文字があれば、こちらでご確認ください。
京津電車御案内 吉田初三郎画(札ノ辻駅〜長等公園下駅部分)
〔読み下し 札の辻駅〜長等公園下駅〕
【雄松浜】一名近江舞子と云ふ 風景絶佳にして避暑にハ最もよし
【竹生島】日本三弁天の一 月ともに なみまにうかぶ 竹生嶋 舟にたからを つむここちして(御詠歌)
(比良)雪はるる 比良の高根の 夕暮は 花のさかりに すぐるころかな
(満月寺浮御堂)ついにまた うき名やたたん 逢事ハ さて(へと?)も堅田の浦の あた浪 宗成
(左馬之助湖水渡り)から崎の 松は花より おぼろにて はせを
(俵藤太)むかし、俵藤太秀郷、瀬田の橋上より三上山の蜈蚣を退治すと 亦曰く、龍宮に至りて天姫に会見すと
(湖水と観光船)湖水の龍宮城は あわりけり 鯉鮒うなき なまずすっぽん 釣れるよと あとは一生懸命なり
(瀬田唐橋) 湖のうみやかすんで暮るる春の月に 寝るも遠し せたの長はし このあたりしじみの産物あり
【石山寺】御詠歌 後の世を ねがふこころは かろくとも 佛のちかひ おもきいし山
【蛍谷】身をこがす 蛍草や 月五日
【粟津】粟津の晴嵐は 旭将軍木曽義仲の 戦死にて 名高し
【膳所】ぜぜささなみ温泉に連絡す
【鮎のあめだき】日本一の名物 源五郎鮒ずしあり 以て大津の誇とす
【柴屋町】淡海一洲の水門口とて花は曙月待つ霞の美人多き遊郭あり
【紺屋ケ関】
【大津電車】大津電車のりばまでハ三丁なり 連絡に最も便なり
【いしば(石場)】魚善とて名高き料亭あり 味も景色もなかなかニよし
【大津絵】
三井寺にハ【弁慶の力餅】とて日本一の名物あり
いでいるや 波間の月を 三井寺の かねのひびきに あくるみづうみ(御詠歌)
《札ノ辻》
近江八景 遊覧客の便利を計り湖東汽船会社及ビ大津市内電車と連絡しあれバ旅客ハ随時回遊の便利あり 汽船乗場及大津電車へ何れも三丁
【近松山顕証寺】近松山顕証寺を近松御坊と称す 本尊阿弥院(陀)佛親鸞聖人画像等を安置す
【歩兵第九連隊】
【赤十字社病院】
5 京津電車御案内を絵解きする(長等公園下駅〜追分駅)
表面の後半は、長等公園下駅から追分駅までの部分です。長等公園下駅は、現在の上栄町駅にあたる駅で、昭和34年に現在の駅名に変わりました。駅名の由来となる長等公園は、もともとは三井寺(園城寺)の阿闍梨谷と呼ばれた場所ですが、明治の終わりに大津市最初の都市公園として整備されました。開通当時は、最新の行楽スポットだったといえます。また、沿線案内には、このあたりの山は、松茸狩りで有名だったと記されています。
上関寺駅は、昭和46年まであった駅で、今の京津線の線路と県道(旧国道161号)が交差する、踏切あたりにありました。ここから大谷駅に向かっては、逢坂山にちなんだ和歌や俳句を紹介するとともに、大谷駅手前にいまもあるトンネルが、イラスト付きで紹介されています。トンネル内に電灯が点いていることを特記して表現しています。
大谷駅は、現在の京津線の駅と同じですが、今と大きく異なるのは、当時は明治13年に開通した東海道線大谷駅との乗換駅だったことです。イラストには、新橋行の汽車に乗り換える男女の姿がコミカルに描かれています。また、走り井やうなぎで有名なかねよととともに、大谷温泉というスポットが紹介されています。大谷温泉は、現在の国道1号の南側にあった施設です。逢坂山周辺は、周辺の谷あいから豊富な谷水が流れる場所なので、こうした施設が出来たのだと思われます。
京津電車御案内 吉田初三郎画〔長等公園下駅〜上関寺駅部分〕
〔書き起こし 長等公園下駅〜上関寺駅〕
《長等公園下駅》
この付近一帯に松茸山多く、秋にハ遊客たへまなし 松茸をふらりと大津もどりかな
【三井寺】【高観音】【長等公園】【犬塚】
七景は霧にかくれて三井の鐘 詠人知らず
ほととぎす通れ弁慶ここにあり 一茶
さざ波やながらの山の嶺つづき みせばや人に花のさかりを 藤原範綱
【たむけ山】逢阪山の北 関明神の後を手向山と云ふよし古書ニみへたり 権中納言実守の歌に 紅葉はを関守神に手向置きて 相坂山をすぐる木からし
芸で身を喰物ニする芸者かな 天秤棒
《上関寺駅》
【関の清水蝉丸神社】【貴船神社】
平家物語り行基郷東下りの一節に 関の清水にそでぬれて云云 とあるはこの所をぞ云ふあらん
【安養寺】この世から安養寺とは ありがたや やすやすまいる弥陀のごくらく
【立聞の観音】むかし蝉丸の琵琶をたちぎきせしと云ふ
【蓮如上人名号石】頃は寛正六年の春まだ若き花のころ上人台徒に襲はれてここまでのがれ来る時この石のうしろにかくれたり しかるに台徒追ひ来りてさまざまに切りかけたれ共石左右にかたむきて上人をへだてたるよし
【弘法堂】(東三丁)
逢坂の関の清水に名をとめて 行くもかえるも救ふ弘法
これやこの行もかへるもわかれてハ 知るも知らぬも逢坂の関 蝉丸
名にしおはば 逢坂山の さねがづら 人にしられて 来るよしもかな 三条右大臣
夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも 世に逢坂の関はゆるさじ 清少納言
【トンネル内進行中の光景】京津電車逢坂山のトンネルにして進行中 電光燦?として壮快云ふことなし
京津電車御案内 吉田初三郎画〔大谷駅〜追分駅部分〕
〔書き起こし 大谷駅〜追分駅〕
《大谷駅》
【大谷駅】東海道線の一駅にして駅前ニ走り餅あり 駅のうしろに蝉丸山ありほととづす多し おほたにより下の関ゆき
自から称して日本一のうなぎの名物【かねよ】の本店あり
【又平橋】
【大津絵双紙】又兵衛住家の段 むかし岩佐又平ここに住て大津画をかきもとむいまもなお又平谷という所あり 大津絵 筆のはじめハ 何佛 はせを
【大谷温泉】浮世はなれた二人のみみを たのしがらせるほとときす 浴室清潔
【笹原薬師】明治天皇遷都のみぎり憩はせ給ふ
【走り井】走り井はこほとり三名水の一ニして炎暑のときは旅行の舌を潤ほすなり四時たへまなく湧き出て清冷甘味なり 走り井にあかおけくめばちりも紅葉
【走井餅内の御玉座の跡】あめのしたにきはふよこそたのしけれ やまのおくにもみちのひらけて
【小町百才堂ここにあり】わびぬれハ身をうき草の根をばたへ さそふ水あらハいなんとぞ思ふ 小町 座像ハ運慶作と云ヘリ
追分にはむかし【柳ハ緑花は紅】としるしたる石碑ありと云ふ
国境 近江の国 山城の国
6 京津電車御案内を絵解きする(追分駅〜日岡駅)
裏面は追分以降の様子です。追分駅は、厳密には大津市の最後の駅にあたります。追分周辺の名所旧跡は、地名の由来にもあたる、伏見街道との分かれ道が大きく紹介されていますが、それとともに紙面を割いているのは、三井寺方向への小関越です。峠を越えた先にある等正寺(堅田源兵衛の首で有名)が、追分駅の周辺史跡として紹介されているのが、今の地図感覚とは異なる部分でしょうか。
四宮駅は、今も京津線の車庫がありますが、沿線案内でも車庫の様子が紹介されています。他に紹介されている場所は、旧三条通(東海道)沿いが中心です。なかには、山科飴や金屑丸といった名産が取り上げられ、東海道時代時代から続くにぎわいが伝わってきくるようです。
毘沙門道駅は、図中でも紹介されている毘沙門堂にちなんだ駅名で、現在の京阪山科駅のこと。大正10年に東海道線(JR)のルート変更にともなって、山科駅前駅に改称、昭和28年に現在の駅名になりました。
御陵駅では、駅名の元となる天智天皇の御陵が大きく紹介されていますが、気になるのは御陵駅近くに紹介されている百花園でしょうか。「園内風景絶佳にして茶亭料亭の設備もあります」のうたい文句やイラストで見ていると、当時の行楽スポットのひとつだったと想像できますが、手元に資料がなかったため、今回は謎のままです。日ノ岡駅や蹴上駅近くには放鳥射撃場や温泉などが紹介されていることから、当時のこのあたりは、京都の人々にとっては行楽地として認識されていたのでしょう。こうした風景は、京津電車の開通によって、徐々に宅地へと姿を変えていったようです。
ちなみに、日岡駅(正式な駅名は日ノ岡)は、府道四宮四ノ宮四ツ塚線(三条通)の日ノ岡交叉点東側の路上にありました。また、蹴上駅の間には、平成9年(1997)10月、京都市営地下鉄東西線の開通で地下化するまで、九条山駅という駅がありました。この駅は、昭和11年(1936)に天文台下駅(花山天文台に由来)として開業し、昭和18年に九条山駅に改称しています。
京津電車御案内 吉田初三郎画〔追分駅〜毘沙門道駅部分〕
〔書き起こし 追分駅〜毘沙門道駅〕
《追分駅》
【小関越】小関越に道晴茶屋と云ふあり 四の宮村の左側の野道より入るなり 餅の名物ありて名高しと昔の本にあり
【本門佛立寺】ここより南二十町にして【牛尾山観音】あり坂上田村麻呂の作なりと伝ふ
【等正寺】ちかみち 三井寺南別所 堅田源兵衛法死の首旧跡
【髭茶屋町】追分より南すれば奈良街道にして宇治及ビ醍醐ニ至る 昔し豊太閤出陣之途 この所を通りしに白髭ある村の翁出て茶を進めしにより髭茶屋の名を得たるよし 髭茶屋町ハその旧跡なり
《四宮駅》
【京津電気軌道株式会社】京を出て一瞬之間に大津かな 京津電車の車庫地なり
【仁明天皇第四皇子 人康親王御墓】山階の宮得月台の旧跡なり
【四ノ宮河原十禅寺観世音霊場】本尊聖観音ハ聖徳太子の作ナリ(楊柳山十禅寺とも云ふ)
【諸葉神社】天児屋根命を祭る
【名物山科あめ】飴の味は日本一なり 昔し雲助共のよろこんで喰ふところ 今も尚旅人の口に甘し
【地蔵堂】日本六地蔵の一にして小野篁の作と云ふ 六ツの辻四ツのちまたの地蔵尊導ききたまへ弥陀の浄土へ
【本家 様金屑丸】毘沙門天王の御茶所なり 日本一ノ毒消し茶金屑丸の本家あり
《毘沙門道駅》
【毘沙門堂】本寺はハ文武天皇大宝三年護宝鎮重のため創建したまふ 堂宇尊厳を極め霊験あらたかなり 門前極楽橋の称あるは後西院天皇行幸の時 勅によりて名(づ)けたるもの 寺内宝物多く名画あまたあるよし 四時参詣者多し
【吉祥山安祥寺】【安祥寺川】日暮の桜谷は(北十三丁)
【奴茶屋】奴茶屋の先祖は片岡牛兵衛とて射御の達人なり
京津電車御案内 吉田初三郎画〔追分駅〜日ノ岡駅〕
〔書き起こし 御陵駅〜日岡駅〕
《御陵駅》
【みささぎ】「天智帝 此野に御狩し給ふ時忽然として昇天あり御沓の落止まる所に陵をぞ建てたり」とものの本に記されたり おなじみの百人一首は皆様すでに御存じの御皇にてなり 我衣手は露にぬれつつ
【百花園】みささきの西一丁にして四時花の絶ゆる時なく 入園随意なれバ来り楽む人多く 園内風景絶佳にして茶亭料亭の設備もあります エデンとはここか御陵の百花園 今其角
【市場】これより南方に東西本願寺の山科御坊あり 旧跡蓮如上人の墳 実如上人田村将軍の墳 岩屋大明神、大□寺、山階寺の旧跡 三条右大臣藤高公の塔 大石内蔵助良雄蟄居の跡仝断命石及び梅本寺阿弥陀堂、元慶寺僧正遍照の墳等あり
【西宗寺】蓮如上人往生の地
【花山稲荷】(十八丁)
【将軍塚】(八丁)
《日岡駅》
日の岡峠は往昔木食上人ここに庵をむすんで坂路を平にし ゆききの人車牛に慈愍を施す
南二丁にして一切経谷に至ル
昔し刑置場のありしところ 今は修路碑建ちて清水湧出ず
このあたりいたく荒れてあり山賊等どもしばしば出でて旅人をなやませしここにて弓矢を借りいづれも旅に出たりと云ふ弓屋となり
【花鳥温泉】甚五楼とて旅館兼料亭あり御客様ハ温泉御入浴無料のよし
7 京津電車御案内を絵解きする(蹴上駅〜三条大橋駅)
最後の部分は蹴上駅から終点の三条大橋駅までの区間です。蹴上駅から先は、いよいよ京都市の中心部に入るため、ふたたび広範囲の名所旧跡が紹介されるようになります。蹴上駅は、明治33年(1900)に開業した都ホテル(ウェスティン都ホテル京都)や南禅寺のほか、東山周辺の社寺が紹介されています。
京都市営地下鉄東西線が開通する、平成9年までは、蹴上から三条までの区間は、三条通を道路との併用軌道で電車が走っていました。こうした風景は、今も記憶に残っている方々も多いと思います。ただし、京津電車の開通当時は、ルートが少し違いました。京津線の廃線時には、蹴上駅の次は東山三条駅でしたが、この沿線案内には、廣道駅と応天門通駅の名が見えます。京津電車の開通当時、蹴上から神宮道(平安神宮前の道)までの三条通は道幅が狭く、鉄道が通せなかったため、蹴上駅から古川町駅までの区間は、三条通の北側を線路が走っていました。廣道駅と応天門通駅は、その区間上にあった駅の名です。昭和3年に、駅名はそれぞれ岡崎通駅・神宮前駅に改称しますが、三条通に鉄道が通るようになった昭和6年に岡崎通駅は廃止、神宮前駅は三条通上に移設(昭和19年に廃止)されました。
ちなみに廣道駅の上あたりに、「広瀬翁自営貝類博物館」という施設紹介されています。これは、大正2年から8年まであった貝類専門の博物館で、民間の研究者であった平瀬与一郎氏が、独力で運営していた私立博物館です。開館期間は短いものの、氏の研究成果は日本の貝類学の基礎を作ったといわれています。
京都の中心部に入ると、再び紹介される名所旧跡は、広範囲になります。また、古川町駅は市電との接続があること、そこから北に向かうと帝国大学(京都大学)や美術学校(京都市立芸術大学)などの通学に便利だとも書かれています。
最後は三条大橋駅です。京阪電鉄京津線の廃線時、三条駅は京阪本線との接続から、三条通から南に向かって乗り降りしていましたが、開通当初は三条通上に乗降場所が設けられました。
京津電車御案内 吉田初三郎画〔蹴上駅〜廣道駅〕
〔書き起こし 蹴上駅〜廣道駅〕
《蹴上駅》
【放鳥射撃場】蹴上の東二丁にあり 都人士が勇しき娯楽場なり
【蹴上大神宮】蹴上大神宮の由緒!当宮は顕宗皇帝の聖蹟にして伊勢両宮の別宮なり 御歴代天皇を始メ奉り文臣武将崇敬の霊地なり
【式内日向神社 神明宮】(北三丁)
【蹴上大神宮神苑名跡】五十鈴川、朝日の滝、朝日泉、宇治橋、影◆(郷+向)の巨巌、七本袢檜、天の岩戸、菅公胞衣の所、其他四季風景絶佳なり
【紅葉の名所永観堂】若王子の滝は京都一なり
【インクラインはここで御生い】船頭多からずして船山へ登る
【真如堂】熊谷二郎直実の旧跡黒田にハ鎧かけの松あり
【銀閣寺】日本一の大文字ハ毎年八月一六日
(京都市立紀念動物園)には世界の猛獣珍鳥多し 坊ちゃん嬢ちゃん是非共御覧なさいませ
【南禅寺】石川や浜の真砂子ハつきるとも世に盗人の種ハ尽きまじ
弓屋旅館の旧跡あり
昔し牛若丸此所を通りしにあたりの野武士出来たり 涙を蹴上げたれバ今もなほ蹴上と云ふなり
旅人の山路へわぶる夕ぎりに駅路の鈴の音ひびくなり 衣笠山大臣
【瓢亭】下戸も上戸も瓢亭を知らずして料理を語る資格なし
【貝類博物館】平瀬翁自営 全世界の珍種
【水道水源地】日本一のみやこホテル
《廣道駅》
【佛光寺廟所】
【粟田神社】名物粟田焼あり
【知恩院】鶯張のろうかあり 左甚五郎の作とも云ふ
【植髪堂】
京津電車御案内 吉田初三郎画〔応天門通駅〜三条大橋駅〕
〔書き起こし 応天門通駅〜三条大橋駅〕
《応天門通》
【大極殿】日本一の時代祭は毎年十月廿五日
【商品陳列所】
【慶流橋】図書館ニハ世界的珍書奇書豊富なり 朝八時より夜十時まで開館
【市立勧業館】 展覧会等多し
《古川町》
京都市電の交叉点にして各学校へ通学に便利なり
此あたり諸学校多し 吉田神社近くニあり 第三高等学校、中学校、高等工芸学校等にて聖護院にハ名高き日本一の八ツ橋あり
【帝国大学】(十丁) 【美術学校】(九丁) 【熊野神社】(七丁)
都のひんがし祇園わたりの春景色、華頂の初花咲きそむる頃ともなれバ 京の水の清きに洗いみがきたるたをやめの紅粉を粧ひ美服をまとひて月花ニうかるるも名物の一ツなるべし さるほどに今や京津電車東海道の一部を走って茲に志賀の浦波を静かに乗せて花の都へ通ふよし 古川町にて京都市電に乗りかゆれば伏見桃山さてハ又大坂までも一走り京阪電車へ連絡あり便利此上あるべからす
【円山公園】夜ざくら
【八坂神社】破荒王命を祭る毎年七月十七日祇園祭ありその山鉾ハ日本一なり
【祇園町】毎年四月都おどりあり
あづま男に京おんな 日本一の美人の本場の本場はここなりここなり
《三条大橋》
京都ハ千有余年の旧都にして名所旧跡神社仏閣揚げて数ふるにいとまあらず 今口さかなき京童の謡ふを聞けば(俗謡) 京の名所を知らないお方に京都の名所が知らせたい 紫宸殿には御即位や北野金閣寺にノーエ やがて大橋が 下加茂にカイカイ!!
句に曰く 月雪も花もことさら東山 ばせを
【むかしの旅人】【現代東海道中記】
旅人のむかしおもへば京津のチンチンチンぞありがたきかな 今弥治郎兵衛作
【先斗町】毎年五月鴨川おどりあり
【新京極】(西二丁) 四時興行物絶ゆる時なし
8 沿線案内の楽しみ方
ここまで、京津電車御案内に記された、大正時代の大津〜京都間の様子をご紹介しました。大正時代とはいいながら、平成9年の京都指市営地下鉄東西線開通前の風景を記憶しておられる方にとっては、知らないスポットがたくさん載っている一方で、どこか懐かしいと感じる要素が多い資料だったと思います。
沿線案内は、その場限りの用途で作られたものではありますが、見た目の美しさや楽しさから、旅の思い出として保管されることが多い資料です。これらは中味をじっくり鑑賞すると、神社や寺院のように、今も昔も変わらず存在するものがある一方、百花園や貝類博物館のように、その時期だけしかなかった施設も多くあることに気付きます。こうした施設はまとまった記録がないものも多く、沿線案内は当時のありようを知る手がかりとして、意外と役立ちます。また、冒頭でも紹介したとおり、交通会社は沿線の観光旅客獲得のため、こうした沿線案内を毎年のように発行し、配布していましたから、時代順に並べて見比べることで、沿線の移り変わりを知ることもできる、いつまでも見飽きることない資料だといえます。
また、今回は触れませんでしたが、この沿線案内を描いた吉田初三郎も非常に面白い人物です。大正の広重とみずから称した、鳥瞰図を得意とした彼が、この京津電車御案内については、まったく別な描き方で作品として仕上げています。この点に関しては、また別な機会にご紹介したいと思います。
博物館資料は、実物を直接見ることが、資料が持っている情報を受け取ることができる一番の方法なのですが、今回ご紹介する観光パンフレットといった紙資料は、もともと手に取って見るために作られたものですから、ケース内に展示してしまうと、細かなところまで鑑賞していただくのが難しいという側面があります。そのため、展覧会では写真パネルに引き伸ばして展示するのですが、より作品を堪能するには、パソコン画面でじっくり眺めるほうがよく見えます。最近では、実物に直接触れることのできる筆者自身でさえ、沿線案内や写真絵はがきといった、中に含まれる情報量が多い資料は、真っ先にデジタル化して、モニター画面で鑑賞しています。そうすることで、実物よりも大きく見ることができ、結果として気が付かない発見をすることも多いのです。インターネット上なので、少々わかりづらい部分があったかもしれませんが、普段、自身が資料を解読している(楽しんでいる?)作業の一端を疑似体験していただけたとしたら幸いです。
最後にもうひとつ資料を紹介して終わりにします。大正14年、京津電気軌道は京阪電気鉄道と合併し、京阪電鉄京津線となりました。実は、今回の新収蔵品には吉田初三郎が手掛けた沿線案内とほぼ同じデザインで、昭和3年に制作されたものをご寄贈いただきました。ただし、この沿線案内には初三郎のサインがないため、他の人物に発注して再構成したものだと思われますが、2つを比較することで、京津線の蹴上‐古川町間や東海道線の大津〜京都間の付け替えの様子など、路線や沿線の差を知ることができます。
新型コロナウイルスの影響で、令和元年度の新収蔵品展は中止となりましたが、どちらの資料も博物館常設展示室の近現代コーナーにしばらくの間、展示いたします。大津歴博にお立ち寄りの際には、ぜひ実物をご確認ください。
本館副館長 木津 勝
2020.5.27
《付記》
本稿執筆にあたり、読み下しの校正を新木慧一(本館学芸員)が行ないました。
京阪電車京津沿線案内 昭和3年 大津市歴史博物館蔵