大津市歴史博物館

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第2回 津田三蔵と西南戦争

 平成15年2月から3月にかけて、当館で企画展「大津事件」を開催した。同展の事前調査の過程で、上野市内から53通にのぼる津田三蔵書簡を発見し、その一部は同展でも陳列したところである。

 その後、他の所蔵者から提供を受けた津田三蔵書簡も含め、全76通分の翻刻を完了した。記された時期は、明治6年(1873)4月10日から同24年4月7日、実に大津事件発生1ヶ月前までの、19年間に渡っている。その全貌は、平成16年度に発刊した『大津市歴史博物館研究紀要』第11号において発表したが、今回「学芸員ノート」の紙面を借りて、その一部を紹介することにした。

 さて大津事件における津田三蔵の犯行動機には、彼自身が持つ西南戦争の従軍体験が、大きな意味を持っていたのではないかということは、企画展の図録や関連講座でも触れた。今回翻刻した津田書簡のなかに、西南戦争が勃発した明治10年のものは10通が残されている。

 明治10年2月22日、西郷軍は、政府軍が守る熊本鎮台(熊本城)に攻撃を開始し、西南戦争の火蓋が切られることになる。その6日後、2月28日付けで、兄貫一宛に出された書簡で、「九州辺は何か沸騰の旨、過る念三日(23日の意)の命令に、開戦に及び候趣き」と記している(津田書簡はカタカナ交じり文であるが、すべて平仮名になおしている。以下同)。津田が当時配属されていたのは、金沢第七連隊第一大隊で、西南戦争時は、別働旅団として、3月20日、熊本県日奈久(ひなぐ、現八代市)に上陸、熊本城を包囲する西郷軍の背面を衝くことになるが、それから6日後、津田は、日奈久近くの葦北郡大野村で、左手に貫通銃創を負い入院した。

 彼は負傷後、「八代繃帯所」において治療を受けたと記録にあるが、その後は長崎に移されたようだ。残された津田書簡からは、退院後から戦争が終結して凱旋するまでの彼の行動がうかがわれる。まず明治10年5月29日付け(写真1)の兄貫一宛書簡によると、彼は5月20日に退院したあと「長崎御軍運輸局に於て不足物品を受取り」、長崎市内に1泊している。翌日、船で対岸熊本の「肥后百貫運輸局」に到着、さらに熊本本営に出頭、同26日には、船で鹿児島に渡り第一旅団の本隊に復帰した。復帰後の津田は、水を得た魚のように、戦場を駆け巡ったのであろう、前線での兵士の様子を、興奮気味の文体で、家族に書き送っている。

写真1 津田三蔵書簡 貫一宛(明治10年5月29日付)
写真1 津田三蔵書簡 貫一宛(明治10年5月29日付)

(1) 官軍城の裏手の山より甲月川(甲突川)に沿て胸壁を築き、軍艦は該川の入江する処、鹿児島港に在て迭(たがい)に対向時罵詈を極め砲撃す(5月29日付け書簡)
(2) 過日官軍夕景に花火数十本打上げ、実に万人の眼を喜しむ、賊軍此花火を望て吶喊囂々(とっかんごうごう)、賊山上より花火を目的にし、大砲五門交る々々放撃す(中略)恰も万星一時に降流するが如き(6月16日付け書簡)

 このような戦場の様子とともに、津田は、西郷隆盛、あるいは西郷軍に対しても感想を述べている。まず、先に引用した2月28日付けの書簡だが、そこでは、金沢の不平士族の行動を非難し、「西辺(西郷軍)の旗色が好くなれば、随分暴起する馬鹿もありましょう、当地(金沢)の士族は至て惰弱にして(中略)彼の熊本如き暴動の十分の一も出来兼候」と記している。西郷軍の勢力は、当時の世論でも、また政府高官にとっても驚異に映っており、三蔵もまた、それと同様に驚異を感じていたようだ。

 しかしこの評価も、彼が実際に従軍し、西郷軍と向き合うにしたがって、微妙に変化してくる。8月31日付けで、三蔵が母きのに出した書簡では、「賊徒(西郷軍)」は山野に潜伏し、生き長らえようとしているだけで、官軍と戦う様子はなく、官軍の隙を見ては食糧を奪いとるという有様で、「恰も草賊の体載(裁)に異ならず」と歎いている。さらに津田は続けて、

実に可憐の草賊に非ずや、愚案ずるに、西郷氏は昔日の忠臣にして、国家に益すること並なく知る処、為之一時人望を得ること亦該氏の右に出ることなし、然るを今、反賊にして天下の兵を請け、俵坂(田原坂)の一戦大に敗走し、為之八代口の戦いも一時に敗走、此戦状を以て該氏の目的の達すると不達は判然燎々たり、然るを、西郷氏たる者野山に潜逃れて日一日も生を盗むは、昔日人望を得る西郷氏に非る也、定めて狂気の西郷氏と察するも理なきに非んや(後略)

 ここで津田は、西郷のことを「昔日の忠臣」であり、集める人望も、彼の右に出る者は無いと、敬意をこめつつも、西郷軍が、ただ逃げまどうばかりの「草賊」と、三蔵の眼に映ったとき、西郷への評価は大きく転換した。「昔日人望」を得ていたときの西郷ではなく、「狂気の西郷氏」だとまで、言ってのけるのである。たびかさなる官軍の勝利と、西郷軍の敗退のなかで、「西郷神話」はもろくも崩れ去っていく。

 津田はさらに、同年9月25日付けの母宛書簡で、次のように書き送っている(写真2)。

写真2 津田三蔵書簡 母宛(明治10年9月25日付)
写真2 津田三蔵書簡 母宛(明治10年9月25日付)

(前略)当月廿四日午前第四時より大進撃にて大勝利、魁首西郷隆盛、桐野利秋を獲斃し大愉快の戦にて、残賊共斬首無算なり、此日楽隊音楽を奏し、各部隊に日の丸の旗を掲げ、戦士は凱歌を歌ひ、勇気山を抜く(後略)

 津田は、政府軍が西郷を捕えたと記しているが、事実は、彼は城山で自刃し、首級が確認され、政府軍の手に落ちることになったのである。この書簡中で「大愉快の戦」と表現しているのは、長きに渡った従軍が、これでようやく終わるという解放感もあっただろう。また強敵と思い込んでいた西郷軍に勝利したという達成感もあったのだろう。

 彼は、9月29日午後四時頃、鹿児島港から船で神戸に着く。そのときの気持ちを、津田は「上陸後万自由を得、恰も別世界に蘇生する心地仕、上陸後愉快を相極罷募り候」と、端的に感動を表現している(10月2日付け母宛書簡)。

 その後、彼は、当時のコレラ病流行のあおりを受け、神戸で数日足止めを喰らうが(10月17日付け母宛書簡)、10月22日、金沢営所に無事、帰還を果たした。

 津田は、凱旋の翌明治11年、西南戦争出征の疲れからか入退院を繰り返すような重病に罹るが、そのさなかの10月9日、勳七等と褒賞金100円が下賜される。そして明治15年1月9日、10年間に及んだ長い軍隊生活を終え、同年3月15日、三重県巡査を拝命する。以後、津田は、西南戦争の従軍時とは比すべくもない、淡々とした巡査生活を送るなか、大津事件を約1ヶ月後に控えた明治24年4月、西郷生存という突拍子も無い噂話の存在を、新聞で知ることになる。

 なお、「研究紀要」11号では、津田書簡全76通の解説文を掲載するとともに、書簡に見る津田の生涯を紹介している。

(本館学芸員 樋爪 修)