博物館の活動紹介
第6回 下阪本の若宮神社で、天正15年(1687)銘の太鼓見つかる
下阪本六丁目若宮神社で、天正15年の銘が刻まれた太鼓が所蔵されていることが分かりました。
この太鼓は、日吉大社の山王祭の船渡御で利用されていたもので、これほど古い年号を刻む祭礼の太鼓が残されていることは、稀でなことです。また天正15年は、織田信長の山門焼き打ちによって焼失した日吉社が復興を遂げる時期に当り、社殿の再興と共に祭礼も復興していた様子を物語る資料としても貴重です。
見つかった太鼓は、巾63センチ、径60.8センチで、普段目にする祭りの太鼓に比べると胴の膨らみが少なく、スマートな外見を持っている。胴の上部に二ヶ所鐶が取り付けられており、棒を横に渡し、担ぎながら叩くことができるようになっています。この鐶の付近に「天正十五年卯月一日」「奉寄進」「■■■■(日吉二宮?)太鼓」の銘が刻まれており、天正一五年に奉納されたことがわかります。皮の一部は破れており、そこから胴内をうかがうと、「天和三年癸亥歳」(1683)と「宝暦四甲戌」(1754)の墨書が確認され、2度皮の張り替えが行われたことが確認できました。
現在は、若宮神社の春祭(5月3日)に境内へ出されるのみで、皮が破れているいため太鼓としての機能を果たしていませんが、かつては山王祭の船渡御の時に利用されました。4月14日申の神事で、西本宮を出御した七社の神輿は、下阪本の七本柳から神輿船に安置され、唐崎沖へ向かいます。以前は丸子船2艘に板を渡し、神輿を安置していました。そしてこの太鼓は、大宮(現:西本宮)を載せた船の舳先に、竹を組んで置かれていたといいます。神輿船は、唐崎沖で粟津御供を供えられ、その後若宮神社のある比叡辻に向けて渡御。唐崎から比叡辻まで神輿船の競争となるのですが、そのスタートの合図は、この太鼓を打つことでした。このため「大宮太鼓」と呼ばれています。
次に天正一五年という年代について触れておくと、元亀2年(1671)、織田信長の山門焼き打ちによって日吉社は灰燼に帰し、その復興は、織田信長の死後、豊臣秀吉の時期になって本格的となりました。比叡山、日吉社ともに復興がはじまり、日吉社については祝部行丸(正源寺行丸とも)が尽力し、南光坊祐能などが努力しました。天正11年(1583)には、日吉社境内の清祓が行われ、七社の仮殿が設けられます。その年の山王祭は、駕与丁の事情などで大榊のみの渡御だったと記録されており、焼き打ちの痛手が癒えていない状況でした。天正13年(1585)には大宮立柱が行われ、翌天正14年には大宮正遷宮が行われています。日吉社の復興がようやく軌道に乗ってきた時期といえます。そのような時期にこの太鼓は寄進されており、まさに社殿の復興とともに祭礼の復活も進んでいたことを物語る太鼓ということができます。
(本館学芸員 和田光生)