博物館の活動紹介
第18回 関津遺跡発掘調査の意義
大戸川と瀬田川が合流する地点の南東部、田上関津の地に営まれた関津遺跡は、これまでほとんど発掘調査が行われたことがなく、実態がわからない遺跡であった。今回、本遺跡が立地する地域で、県営ほ場整備及び国道422号・市都市計画道路建設事業が行われることになったため、事前に発掘調査を実施することになった。調査はほ場整備と国道部分を滋賀県教育委員会が、都市計画道路部分を大津市教育委員会が担当し、平成15年から始まり、同19年までの予定で現在も継続して行われている。これまでに、県内最古級と見られる墨書土器、奈良時代の「田上山作所」に関わると考えられる建物群、さらに平安時代後期から鎌倉時代の大規模な集落跡、そして室町時代から江戸時代の「関津浜」の一部と見られる護岸施設など、古代から近世にいたる各時期の遺構や遺物が出土し、それまでほとんど分かっていなかった当地の歴史の解明に大きく寄与することになった。加えて、昨年秋に、遺跡のほぼ中央を南北に貫く大規模な古代の道路跡が発見され、新聞紙上で大々的に報道されたことで、全国的に大きな反響を呼び、いま湖国で注目される遺跡の一つになっている。
この古代の道路跡は両側に溝(幅1〜3m)を備えた路面幅15m前後の立派なもので、大津市域で初めて発見された本格的な道路遺構である。道路の使用期間は、側溝やその周辺がら出土した土器などにより、8世紀中頃〜9世紀中頃の期間は道として機能していたことが分かっている。(敷設時期については、八世紀前半まで遡る可能性がある)。この期間は、大津を含む近江国が大きく変化した時代でもあった。聖武天皇の東国行幸(740年)に始まり、藤原仲麻呂の台頭に伴う保良宮造営(759年)や石山寺大改築(761年)、そして「藤原仲麻呂の乱」(764年)、最後に桓武天皇の平安京遷都(794年)に伴う「大津」の地位の変化など、奈良時代後半〜平安時代初頭の期間、大きな歴史の変化が近江を舞台として繰り広げられていた。しかも、それが大津市南部を含む湖南地域に集中している。この事実はとは、本遺跡で見つかった大規模な道路遺構とまったく無関係とはいえないだろう。おそらく、国家的な大事業にあわせて、この道路も造られたと考えるのが妥当だと思われ、使用開始が8世紀中頃という時期を考えれば、聖武天皇の東国行幸か保良宮造営のいずれかが有力となってくる。これを決めることはなかなか難しいが、犬上郡甲良町尼子西遺跡から見つかった古代の東山道と考えられている道路跡が奈良時代中頃に造られたこと、奈良時代の東山道が城陽市付近から宇治田原を通り大津市南部に至る「田原道」が有力とされていることから、天皇の長期の行幸に先立ち、関津遺跡の道路遺構を初めとする近江の東山道が敷設された可能性を考えて見たい。聖武天皇が近江禾津頓宮から山城玉井頓宮に至るルートは分かっていないが、近江国府から宇治田原へ抜ける「田原道」、すなわち当時の東山道を使って山城へ入ったと考えて何ら差し支えない。その時に通ったのが関津遺跡で見つかった道路とみてよいのではないか。いずれにしても、古代の道路跡の発見により、本遺跡の重要性がさらに高まったといえるだろう。
(本館館長 松浦俊和)