博物館の活動紹介
第30回 青きょう寺と龍音寺の阿弥陀兄弟仏
大津市南部の瀬田川流域、旧田原道(旧東山道か)沿いは、古代の主要幹線道であり、飛鳥や大和の都から東国や北陸へ向かう北の玄関口でもあったことから実に多くの寺社が造営されました。現在、そのほとんどが廃れたとはいえ、多くの仏像が残されています。
今回は、まさにこの仏像ルートに沿ってほぼ南北に八キロの距離である瀬田の青きょう(※山辺に喬)寺と大石龍門の龍音寺に、たいへんよく似た平安中期十世紀の阿弥陀如来坐像がそれぞれ伝来していることが企画展準備調査で判明しましたので紹介します。
まず、瀬田の青きょう寺は、「瀬田の唐橋(瀬田橋)」の東すぐ北に位置する天台真盛宗寺院です。この地はかつて近江国庁のあった地で、近江国の政治の中心地でした。まさに瀬田川ののど元に位置し、かつては瀬田津が付近にあったと想像されます。また、古代の東山道がここから東に向かい、東国に向かう出発地点でもあります。さらに大津宮時代や平安京以降は、東海道と東山道が瀬田橋を渡るところでもありました。まさに交通のT字路、琵琶湖の水運を考えると十字路という場所です。
一方の大石龍門の龍音寺は浄土宗寺院です。龍門は、旧田原道を宇治田原から禅定寺峠を越えて大津に入ってまもなくのところにあり、元暦元年(一一八四)には近江の著名な名勝地として名が残っています。まさに山城国から近江国に入ってすぐの開けた場所です。そしてその道はそのまま瀬田橋まで続いているのでした。
さて、本題の仏像を見ていきます。龍音寺像はほぼ当初の彫刻面を味わうことが出来るのですが、青きょう寺像は江戸時代に表面が修理され、厚めの後補彩色で覆われているため、 本来の彫刻面を伺うことは難しいものの、それでも形状と形式は十分みることができます。形状は両像ともほぼ同じなのですが、唯一違うのが足の組み方です。青きょう寺像は左足を上にして結跏趺坐(けっかふざ)しているのに対して、龍音寺像は右足を上にしています。あとは 通常の阿弥陀如来の坐像と一緒です。
さらに細かく見ていきましょう。両像とも、肉髻(にっけい)と地髪部の差は穏やかでなだらかにみえます。面相部は丸く、額が広めなのが特徴的です。袈裟の懸け方が同じで、そこから現われる肉身の形も一緒です。袈裟が右肩に懸かる部分に正面から二条みえる衣文(えもん)の形、首の周りを少し折り返してゆったりするところ、右脇から袈裟を斜めに懸けている時、端を折り返しながら、しかも、右胸下でたくしを表すところ、両足のふくらはぎから脛にかけてU字に数条衣文を表し、しかも両膝先では全く表さないなどという両足の衣文の表し方まで同じです。
正面だけではありません。側面から見ても、螺髪(ほら)の付き方、耳の形、膝の太い部分たげ衣文を彫らず、腰と膝に表れる衣文の形も似ています。何よりも全体的なシルエットも近似しています。龍音寺像の、背中を後に引いて腹を出す姿勢も特徴的なのですが、青きょう寺像にはややそれを感じられないかもしれません。じつは、江戸時代の修理の際、三センチほどお尻の部分を高くしているのです。それはより礼拝者の方を向くべくされた後世の細工であり当初の姿ではありません。それを差し引いてみてみると、横の姿勢もそっくりなのです。像底の形もよく似ているのもいうまでもありません。
最後に大きさを見てみましょう。青きょう寺が五三・七センチで、龍音寺像は五〇・三センチ。先に述べたお尻の下駄の分を引けば、四ミリの違い、これはほとんど測定誤差の範囲内で、同じ高さといってもいいでしょう。まさに双子のようにそっくりな仏像なのです。
両像の発見により、瀬田と大石の仏像の道が、十世紀に太くつながっていることが実例によってわかったのです。
(本館学芸員 寺島 典人)