大津市歴史博物館

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第32回 企画展「戦争と市民」を終えて

 本年7月25日(土)から8月30日(日)までの32日間(開館日数)、当館企画展示室Aにおいて、企画展「戦争と市民―湖国から平和へのメッセージー」を開催した。本稿は、企画展担当者からの結果報告である。
 企画展のタイトルは、当初「大津・戦争・市民」としていた。しかし、展示の準備を進めていくなかで、展示資料や取り扱う情報を大津市のみに限定するのではなく、少なくとも滋賀県全域を対象として戦争の歴史を語るべきではないか、また展覧会の内容も、当然のことながら、平和の大切さをアピールするものであるべきだと思い、標記のタイトルに変更し、サブタイトルに、滋賀県を示す「湖国」の文字、そして「平和」「メッセージ」の文字を使用することにした。ただ、当初から「市民」という言葉を入れていたのは、本展では、主に「銃後」の市民生活を扱うなかで、市民にとっての戦争とは何だったのかを明らかにしようと考えていたからであるが、その点については観覧者からのご指摘をいただくことにもなった(後述)。
 それはさておき、企画展に先立ち、広く市民の方々から資料を募集しようと考え、4月15日号の「広報おおつ」に記事を掲載した。また、各新聞社にも掲載をお願いしたところ、ご協力をいただき、多くの紙面に掲載していただいたことから、締切とした5月末日までに、大津市内のみならず県下各地から、実に100件を越える情報提供をいただいた。企画展の会期が迫るなか、一人でも多くの方とお出会いしたいと思い、5月から、企画展が始まろうとする七月にかけて、連日県下を走り回り、約500点の戦時資料を収集することができた。紙面を借りて、ご提供いただいた方々に対し、厚くお礼を申し上げる次第である。
 また、企画展が始まって以降も、多くの方が、自家に保存されていた戦時資料を博物館にお持ちいただいた。そのなかには、旧大津商業学校野球部出身で巨人軍に入団し、レイテ島で戦死した投手・広瀬習平の話しがあった。さっそく大商野球部の方にご協力をいただき、会場内にコーナーを設けた。その他、召集令状(赤紙)や戦時中の日記、軍事郵便、物の無い時代に節約のために使ったツギハギだらけの布切れ、旧八幡商業学校の軍事教練の資料など、随時、展示させていただいた。そのため、会期当初にお越しいただいた方の目にはとまらず、申し訳ないことをしたと反省している。

パンプキン爆弾模型

  今回の企画展で、「戦時下大津の三つの秘話」として下記の3つの話題を取り上げた。それは、①終戦間際に市内南部の東洋レーヨン(現東レ滋賀工場)に落ちたパンプキン爆弾(原爆模擬爆弾)、これについてはパンプキン爆弾の実物大模型をエントランスホールに展示した。②比叡山上に築かれた、幻の桜花特攻基地、これについては、比叡山ケーブルに保存されていた生々しい写真や体験者からの証言を得た。③旧逢坂山トンネル内に設けられた軍需工場。これについては、トンネル内部の写真や、当時トンネル内で働かれていた女子専門学校の方々の証言、それに、女専の方が軍需工場で作業に従事される前に訓練された青年学校での学習ノートも、活用させていただいた。
 また展示室入口では、出征兵士の見送り風景の復元、室内では戦時中の家庭の居間を復元した。

戦時中の居間の復元 展示室入口の出征祝賀風景

  会期中の来館者は7,250名、そのうち、会期中無料とした小中学校の児童・生徒は合計で1,198名であった。来館者全体の内訳は、大津市内71%(滋賀県下まで含めれば85%)であった。世代別では、いわゆる団塊の世代以上(60歳以上)で30%、小中学生で16.5%であった。また内容については、大変満足・満足を合わせると82%と圧倒的に多かったが、不満・大変不満が1.2%と、数字的には極小であったものの、27名の方がそのような感想を持たれた。その理由は、戦争の悲惨さや怖さが伝わってこない。そういった側面を若い人たちにアピールできていない、という点にあった。
 今回の企画展では、先にも触れたように「銃後」の市民生活に重点を置き、戦地でのありさまについてはほとんど触れなかった。それは、平穏と思える今の生活が、知らないうちに戦争協力一色に染まっていくことの怖さ、小学生(国民学校児童)や若者たちの夢や希望を、戦争が奪ったことなどを、「銃後」の戦時資料をありのままに展示するなかで感じていただきたいと考えたからに他ならない。その点では、「今まで教科書でしか見なかった戦時資料に衝撃を受けた」、「今回の企画展は身近で、生活の中での戦争という観点で考えさせられる部分があった」という観覧者のご意見は、正直、担当者として胸を撫でおろすことができた。
 ただ「米国側から見た戦争も合わせて展示できたら・・」というご意見には、今後の課題を教えていただいたと感じている。その一方で、小学生からと思われる感想のなかに、「戦争で日本人が被害を受けたのでアメリカにあやまってほしい」という意見があったことは、担当者として大きな反省点となった。今回の企画展では、戦争の被害者が日本人以外にもあったという点について、一言もふれていなかったのである。早速、「戦争の犠牲者は日本人だけではない、世界の人々が同様に犠牲となった」ことを記し、会場内にパネルを掲示したが、会期半ばのことであり、この掲示を、どれだけの子供たちが目にしたか不明である。今後の大きな反省材料である。
 先にも記したように、今回は省略させていただいた多くの方々からのご意見、ご感想については、機会を改めて公表したいと考えている。戦争体験者の高齢化は進んでいる。おそらく、今の小学生が、体験者から話しを聞ける最後の世代なのではないだろうか。これ以降は、「又聞き」の時代に入っていく。今こそが、戦争の実態を橋渡しする時期なのだと強く感じている。


(本館学芸員 樋爪 修)