大津市歴史博物館

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第39回 江戸時代の山王祭への招待

   

 大津市内の個人が所蔵されている『日吉山王祭貼交屏風』(以下「貼交屏風」)という作品があります。幕末期、山王祭の諸行事を描いた三十六枚(一枚:縦三六・五、横五四・三)を時系列に貼った屏風で、江戸時代の山王祭を知る上で多くの貴重な情報を与えてくれます。専門の絵師が描いたとは思えませんが、行事を伝えようという意図で描かれており、祭礼を考える資料としては貴重な作品です。
 この屏風を読み解くためには、山王祭の流れをお伝えすることが必要となります。 貼交屏風の作品で主要な場面をイメージしていただきながら、現在把握できる範囲でその概要を紹介し、江戸時代の山王祭を考えるための基本情報をまず提供したいと思います。    

山王祭の舞台

 山王祭の舞台は、日吉大社(以下「日吉社」とする)の境内と坂本・下阪本地区です。比叡山中に発する大宮川は、日吉社境内を流れ、そこから扇状地を形成し、やがて琵琶湖に注いでおり、この大宮川に沿うように、山、里そして湖を舞台に、近江を代表する春祭り、山王祭は、華やかな祭礼絵巻を毎年繰り返してきました。
 祭の期間が一ヵ月半に及ぶ山王祭の中心は、七社の神輿です。日吉社を構成する多くの社の中で、上七社と呼ばれる大宮・二宮・聖真子・客人・十禅師・八王子・三宮(旧称)にそれぞれ神輿があり、この神輿が複雑に動座して行事は進行します。この七社の神輿の担当は、三塔十六谷のうち東塔の五谷と西塔・横川に割り当てられており担当を「本谷」と呼びました。駕輿丁の差配などは、この本谷の公人(後述)が担い、他の谷が助谷として援助します。
 また神輿とともに重要なのは、榊です。比叡山中で伐り出された大榊は、大榊神事で大津四宮(現天孫神社:大津市京町)に安置され、申の神事で日吉社に還御します。神輿とは別の神幸が榊によって行われているのです。

山王祭を支える組織

 次にこの祭を担う組織について簡単に触れておきましょう。比叡山延暦寺は、座主以下、執行代(山門の実務機関)、三塔十六谷などの山門の組織が、山王祭に関与していました。具体的な儀礼の場面に登場することはありませんが、一体となって関わっていたことを見逃すことはできません。明治元年(1868)の神仏分離令によって山王祭における延暦寺の関与は断絶しますが、江戸時代は主催者としての役割を担っていました。(現在の祭礼では、いくつかの場面に延暦寺も参加しています。)
 山王祭の諸行事を実行する役職としては、まず社司があげられます。日吉社には生源寺家・樹下家二系統の社司(社家とも)があり、現在の神職の役割を果たしていました。その一方で、日吉社の各社を護る宮仕と呼ばれる人々があり、これは僧侶です。宮仕は社司とともに神事の遂行に欠かせない存在であるとともに、日常的に各社の維持管理にも関与していました。
 坂本の住民側では、山門公人と呼ばれる家々が重要です。比叡山延暦寺は、三塔十六谷に院や坊が点在しますが、その院や坊に属し、その家政や法要等を支える人々で、山王祭にも主体的に関与していました。この公人たちが、六つの講に所属し、山王講を構成しており、在俗ですが、ある程度の年齢になると得度し僧籍を持ちます。
 このほかにも坂本・下阪本の村役人や駕輿丁を担う住民など、様々な役割があり、こうした多くの人々によって大規模な山王祭は支えられていました。その一つ一つに触れる余裕はありませんが、ただ一点だけ触れておくと、山王祭が日吉社の膝下である坂本・下阪本地域に限定されていない点をあげることができます。大榊神事は、大津四宮(現、天孫神社)が、粟津御供は膳所五社(現在の岩坐神社・膳所神社・和田神社・篠津神社・若宮八幡神社)が、未之御供は京都の山王町(京都市下京区)が担い、申日の神輿を担ぐ駕輿丁は比叡山周辺の村々が助力、船渡御には、琵琶湖の各港(浦と呼ぶ)から丸子船が奉仕するといったように、比叡山を中心に広範囲にわたって祭を支える構造が機能していました。現在も多くの人々の熱意に支えられる山王祭ですが、それ以上に多くの人々が関与していたことになります。

山王祭次第

 では、日を追って行事を見ていくことにしましょう。基本資料として、貞享5年(1688)『月之桂(日吉山王祭礼新記)』をもとに他の資料も参考にしながら紹介します。そして、日吉山王祭貼交屏風の該当場面を添えていくことにしましょう。

1 御輿上げ 2 広芝での大榊

■御輿上げ
 三月二十七・二十八日頃、比叡山山内で榊を伐り、飯室道広芝の松まで出します。三十日に広芝で、宮仕による神事があり、榊に幣が付けられ、大宮本殿の東に運ばれます。  

■広芝での大榊
 四月三日酉刻(午後六時)、大津四宮から大榊を迎えに来る大榊神事が行われます。四宮生得神人、松本平野明神神人、大津町代と人夫五十人が、大宮本殿での神事の後、大榊を大津四宮(現:天孫神社)に移します。幸ノ鋒(早尾・大行事の画像を付けたもの)を先頭に、松明に照らされた大榊は、日吉馬場から作道を通り、下阪本を経て大津へ向かい、還御の時まで四宮神社に安置されます。  

3 大榊神事 4 午神事 出御

■延暦寺と山王祭
 四月祭礼前の丑日、執行代から座主宮に対し、山王祭の執行をうかがう手紙が出されます。これは座主宮を通じ宮中に許可を得るもので、元禄七年以降は、三月十九日頃に出されるように変更されました。その理由としては、「元禄七年葵祭御再興に付き内裏御神事に付き法中の参入御停止故」とあり、葵祭の再興で四月は僧侶の出入りが難しくなったためのようです。
 丑日、山王祭に関係する諸機関に執行代から文書も発給されます。大榊本、粟津御供本、未御供本、湖水船奉行、日吉社司、大藪奉行、公人下輪中、下坂本年寄中宛で山王祭の実施にあたり、例年通りの勤めを促す手紙です。

■午神事(八王子祭礼)
「午日申刻(午後四時)八王子祭礼也、これを午ノ神事と云う」と見え、二月に八王子・三宮の社殿に上げられた二社の神輿が山を下り、二宮拝殿におさまる日です。夜、松明に照らされながら急坂を下る、勇壮で危険な神事。山の霊力がこもった神輿が里へ下り、幸いをもたらすと解釈されています。

5 大政所入御 6 未御供

■未御供
 酉刻(午後六時)には、祗園社の宮仕が「未之御供」を献上します。これは、京都室町の山王町にあった山王寺から献上されていましたが、祗園社宮仕がそれを引き継いだとされるものです(江戸時代後期より再び山王町が献上)。未之御供は、この日の早朝に座主宮へ持参し、そこで祈祷をうけた後、日吉社に運んできたもので、大政所の四社の神輿に供えられます。興味深いのは、二宮の御供に薄濃鏡一面、紅筆一双、造雛一対、造花、といった子供の玩具が含まれていることで、この日誕生する若宮へのお供えとも解釈されています。その後、大宮にも未之御供が供えられます。

7 花渡り(中神門前) 8 駕輿丁の行列

■『月之桂』では触れられていませんが、同時刻、日吉馬場では、花渡りと呼ぶ造花の風流の行列があります。

■酉刻(午後六時)、四社の駕輿丁は本谷の里坊で肩揃えをした後、大政所へ向かい、神輿を前後に激しく揺らします。これは若宮誕生の産みの苦しみを表わすと伝えられています。
 また本谷の公人は、助谷の里坊へ出向き、助谷公人に挨拶をします。

9 本谷助谷への挨拶 10 宵宮落し

■亥上刻(午後九時)鎧を着た十六谷の公人をはじめ関係者が中の鳥居に集まり、獅子・田楽を先頭に大政所へ向かい、到着すると、神輿の轅の先を高く上げ、四社の神輿の公人のうち各社二人が神輿の前に立ちます。そして獅子・田楽の芸能が奉納され、田楽法師が舞い納め、扇を上げるのを合図に、四社の神輿が担ぎ出され、百メートルほど先の鼠祠まで競争します。これを宵宮落しと言います。山王祭の中でも最も勇壮な場面です。

■その後、四社の神輿は、大宮拝殿まで担がれ七社の神輿が大宮拝殿におさまります。

■祭礼(大宮祭礼)
 四月二ノ申日「大宮権現祭礼なり」とあり、まず早朝に神供が供えられます。また、巳刻(午前十時)から下阪本では神輿を乗せる船の準備が行われました。琵琶湖独特の木造和船「丸子船」二艘を繋ぎ、板を渡して神輿を乗せられるようにしたものです。これらの船は七本柳に係留されます。
 午刻(午後〇時)には、山門衆徒が三塔ごとに集まり、桟敷入りが行われます。日吉馬場の西に東塔(二棟)・西塔・横川の桟敷があり、僧侶等は、ここから七社神輿を見学するのです。

11 桟敷入り 12 大榊還御

■同じ時刻大宮では、座主宮の幣が七社神輿に捧げられ、この時、桂枝一把が下げられ、座主宮に届けられます。また、七社神輿へも桂枝が供えられ、神馬に祝詞が奏上されます。ちなみに、桂は日吉社の神木です。
 一方で同じ午刻頃、大榊が作道の榊宮に到着します。大津四宮に安置されていた大榊がようやく還御の時を迎えたのです。大津町奉行の役人も付き添い、大津町の人々によって運ばれてきた榊です。未刻(午後二時)に、まず宮仕が榊を迎えに行きます。
 未下刻(午後三時)には、鎧を着た山門公人や仗と呼ばれる警護の人々が中鳥居に集合し、その中から榊宮へ七度半の使いがあります。榊の還御を促す使いで、これにより榊は出発し、中鳥居から日吉馬場を上がり大宮へ至り、本殿東側に安置されるのです。

13 中鳥居 都同① 14 中鳥居 都同②

■大榊のあと、中鳥居にこれから行列組んで進む人々が集合(都同といいます)します。まず、獅子・田楽が進み、三院桟敷の前で芸能を見せます。その後を、山門公人や坂本・下阪本の年寄、仗が行列を組んで中鳥居から大宮へ向かいます。総勢三百人の行列です。また、この籠輿丁は約七百人が参加します。この日の駕輿丁は比叡山の周辺の集落が加勢します。総勢千人が、日吉の馬場を進むことになります。

■大宮に着いた駕輿丁たちは拝殿の神輿を出し、楼門の前の春日丘と呼ばれる場所に並べ、副轅を付けます。

15 拝殿出し 16 神輿渡御

■申刻(午後四時)、神馬、鉾・太鼓、社司、宮仕等が出発。その後を七社神輿が順次渡御します。

■神輿は日吉馬場を下り、中鳥居から大神門まで行って南に折れ、明良を上り作道に出ます。作道を少し南へ行って、湖方向に折れ両社辻で北国海道に当たり、この街道を南へ、七本柳までの渡御です。
 そして七本柳で神輿船に乗せ、唐崎の少し南の沖に停泊します。そこへ粟津御供船が近づき、御供の献饌が行われます。粟津御供は、膳所の各神社が毎年順番に担当しています。

17 七本柳での乗船① 18 七本柳での乗船②
19 唐崎沖 粟津御供 20 若宮着船

■若宮着船
 その後神輿船は、比叡辻の若宮社で上陸し、日吉社へ還御となります。

 今回紹介した内容は、「貼交屏風」のすべてではありません。また山王祭の流れも断片的です。詳細は今後も関係資料を検討した上で、いづれかの機会に紹介したいと思っています。

(本館副館長 和田光生)