博物館の活動紹介
第24回 観音寺町の地蔵さん
大津市観音寺は、いわゆる大津百町の一つとして知られる町内会で、西近江路沿いであり、園城寺(三井寺)の門前に位置する場所にあります。三井寺や市役所の浜側(東側)と思えばいいでしょう。そこの公民館に地蔵菩薩坐像が安置されていて、毎月欠かさずのお参りなど、町内のみなさんの信仰を集めていました。今回、ミニ企画展「三井寺の慶長期の復興と金堂の再建」に際し、関連する仏像として出品しました。そして防犯上のこともあり、当館に寄託されましたのでご紹介したいと思います。
町名の由来は、観音寺というお寺があったわけではなく、現在草津市芦浦に所在する観音寺(いわゆる芦浦観音寺)の屋敷があったことからつけられたそうです。芦浦観音寺は比叡山延暦寺の西塔北谷に関係の深い寺院で、北谷正教坊の詮舜が比叡山焼き討ち時に避難し、山門の復興時に活躍した寺院です。船奉行として信長や秀吉にも登用されました。
文禄4年(1595)三井寺は秀吉に突如として闕所を言い渡され、寺院としての機能は停止。管理は山門(比叡山延暦寺)があたることとなり、観音寺詮舜が差配します。三井寺金堂が延暦寺西塔の釈迦堂として移築されたのはこの時です。同時に、寺内の重宝は京都の門跡寺院などに疎開し、それ以外の宝物も三井寺周辺に逃れたものと考えられます。慶長3年(1598)に入りようやく闕所がとかれ、本格的に復興が始まり、今見る寺観が整っていきました。観音寺町は、本来的には園城寺の所領であったと思われますが、中世末期には離れたようで、以降、大津百町のひとつとして運営していきました。
そのような環境の中に伝来した本像は、非常に明確な特色を持っています。それはまず、ブロックを積み重ねたような、全体に角ばった印象をもたせる作風です。頭部を大きめに表し、体躯もずんぐりとして肩幅もとり、前後の厚みも充分にもたせています。よく仏像の研究者内では「積み木で作れるような感じ」と言っています。そんな作風です。
次に、体幹部の構造が、前後二材(前面材と背面材)を矧ぎ合わせているのですが、胎内をみると、それぞれ左右腰あたりに彫り出しの束をつくり、これを雇ほぞによって前後を連結する造り方(挿図)をしています。さらには、前面材の下は、地付きまで伸ばし(像心束)、安定を図っています。これらの構造的特色もかなり独特なものです。
さらに眼に見える表現ですが、全体的に衣文も深く、大振りなところが目に付きます。鎌倉時代の写実的なものとはだいぶかけ離れた、ダイナミックなものになっています。特に、足を結跏する際、袈裟を巻き込んでいる表現はわかり易く、またその左脚ふくらはぎの上に現れるU字形の(①)衣文も独特です。さらに、その袈裟が左膝に懸かるところでC字(②)に食い込むところ、その左右対称表現として、左足を右膝に結跏する際に、左脚の親指による圧力によって着衣を押すことで表される逆C字の衣文(③)、加えて、左胸に袈裟のたくしによってC字の衣裾を表す表現(④)、背面から見てみると、袈裟の二巡目を大きく表し(⑤)、地付きまで達するところ、袈裟の衣文を左肩から右腰に大きく二条表すところ(⑥)、臀部に袈裟の端の余りを表すところ(⑦)等の表現も目に付きます。
これらの作風、構造、表現は、南北朝時代から室町時代、1330年代から1400年代にかけて仏像界で一斉を風靡したもので、当時、京都を中心に活動を行なっていた「院派」が最も得意としたものです。
院派は、平安時代の有名な定朝の孫、院助から始まった仏師集団で、平安時代には最も有力な仏所の一つでした。南北朝時代になると、足利将軍家や北朝天皇家と親密になり、その菩提寺である等持寺や、天竜寺の本尊造営なども手がけ、さらには禅宗寺院などでも多くの造像を手がけました。源氏に縁深い三井寺も、足利氏の帰依を受けたこともあり、現在も三体の院派と思われる南北朝期の仏像(一体は極めて珍しい脱活乾漆像)が伝来しており、すぐ近くの寺院にも一体、珍しい立像が伝存しています。南北朝期の三井寺では院派による造像が多く行なわれたことを髣髴させます。これら以外に比叡山延暦寺山内にも約10体伝来しており、大津市全体として20体近くの作例が見つかっています。しかしながら、滋賀県全体で見るとそれ以外の地域ではあまり知られていなく、偏りがあるようです。
そこで、観音寺町の地蔵菩薩坐像の光背裏墨書銘をみると、文意はとりにくいですが、三井寺にゆかりの仏像であり、闕所が解かれた次の年の慶長4年(1599)に光背を復興した旨が書かれています。また、寛保2年(1742)大津町古絵図(大津市指定文化財 個人蔵)を見ると、観音寺町のなかに地蔵堂があることがわかります。位置的にも、現在の公民館の位置に当たり、この地蔵堂の本尊が本像にあたる可能性が高いと考えられ、少なくとも江戸時代中期には観音寺町に奉られていたことがはっきり判ります。
これらを総合してみてみると、南北朝時代に院派仏師により三井寺に安置するために造像され、文禄4年(1595)の闕所時に門前の観音寺町に移され、闕所が解かれ三井寺の復興が始まった慶長4年には、他の三井寺諸像などと同時に光背が復興され、そして現在までそのまま現地に伝来し、地域の厚い信仰を受けていたと考えられます。町民の皆さんが毎月熱心にお参りをしていた公民館の地蔵さんが、足利将軍家御用達の南北朝院派のものというのは、さすがは大津ですね。しかも保存も良好で、大事に守られてきたのがよくわかります。
本像のように、三井寺周辺には、まだまだ同寺ゆかりの仏像や仏画が伝来していると予想されます。南北朝院派をはじめとして、各時代の仏像を中心とした文化財が、今後の調査においても新たに発見される可能性があり、かつては日本四箇大寺の一つといわれた三井寺の歴史の深さを少しでも復元できることを願ってやみません。
(学芸員 寺島典人)