大津市歴史博物館

博物館の活動紹介

第9回 大津城の復元

  大津城は、羽柴(豊臣)秀吉の命により坂本城の廃城に伴って、天正14年(1586)頃に現在の浜大津周辺に建設された城です。初代城主は、最後の坂本城主であった浅野長吉(あさのながよし・長政)です。浅野の次の城主は、増田長盛(ましたながもり)で、後に秀吉の五奉行の1人になる人物です。その後、城主は新庄直頼(しんじょうなおより)、京極高次(きょうごくたかつぐ)と続きます。第4代目城主京極高次は、関ヶ原の合戦に先立つ大津城攻防戦に東軍方として籠城(ろうじょう)し、毛利軍の率いる西軍約1万5千人の大軍を大津城に足止めしました。この京極高次による西軍の足止めが、関ヶ原の合戦の勝敗に大きな影響を及ぼしたといわれています。関ヶ原の合戦後、勝利した徳川家康は大津城に入って戦後処理を行い、城主に戸田一西(とだかずあき)を任命しました。しかし、九カ月後には大津城を廃城とし、膳所に城を移します。また、大津城の天守閣は彦根城に移築されます。このように歴史的に重要な役割を果たした大津城ですが、現在では、坂本城や膳所城に比べてあまり知られていないように思います。

大津城復元図 「大津町古絵図」模式図
大津城復元図 「大津町古絵図」模式図

  大津城の規模については、現在縄張りを示すような当時の古絵図は残っておらず、その復元が困難な状況にあります。しかし、明治時代以降に大津城について考証された資料が3点あります。明治35年(1902)堀田璋左右(ほりたしょうぞう)著『大津籠城』の「大津城廓図」、昭和4年(1929)『京都連隊区将校団郷土戦史』第二巻付図の「大津城攻防戦闘要図」、昭和14年(1939)田中宗太郎著『大津城の研究』の「大津城考証図」です。その後、これらの資料や江戸時代の絵図などを参考に、昭和55年(1980)発刊『新修大津市史』第三巻の「大津城復元図」において大津城の姿が復元されました。それによりますと、本丸は琵琶湖中に島のように浮かび、本丸を守るように奥二の丸、二の丸、三の丸、伊予丸が3重の堀をめぐらせて配置された水城です。城の規模は東西約700メートル、南北約600メートルで、大規模の城に復元されています。この復元図を山田豊三郎氏所蔵の寛保2年(1742)写の「大津町古絵図」と比較してみますと、東側の外堀は絵図の風呂屋関(ふろやぜき)にあたり、この堀に大橋と呼ばれる橋が架けられていました。旧橋本町のあたりです。東側の中堀は扇屋関(おうぎやぜき)で、この関の延長上には中堀町という町名が残っています。西側の外堀は今堀関(いまぼりぜき)と記されており、現在の琵琶湖疏水の取水口にあたります。西側の中堀は、川口関(かわぐちぜき)と記され、堀跡がほぼ当時のまま埋め立てられ,現在川口公園として残っています。南側の外堀については、絵図によりますと現在の中町通(なかまちどおり)と京町通の間に細い水路が走っており、また、現在でも中町通と京町通の間に段差があることから、この通りの間に城の南側の外堀があったと考えられています。大津祭曳山展示館の南側にある石垣が外堀の石垣であるといわれています。

本丸内礎石建物跡 本丸東側石垣
本丸内礎石建物跡 本丸東側石垣

  次に、考古学の分野(発掘調査)から大津城について見てみたいと思います。大津城跡の発掘調査は昭和55年から開始され、平成17年までに十数ヶ所で発掘調査が実施されています。しかし、調査地のほとんどが本丸推定地に集中し、本丸周辺の調査はわずかしか実施されていません。結論的に言って、本丸部分以外はほとんど判っていないのが現状です。本丸跡では、石垣や礎石建物跡などが発見され、ほぼその範囲も復元できます。また、大津城の遺物として、土器類や貴重な金箔瓦なども出土しています。推定された本丸の範囲は約26,400平方メートルを測り、この部分は埋め立てによって造成されています。発掘調査の結果、盛土は1メートル以上行われていたことが明らかであり、単純に1メートルとしても26,400立方メートルの土砂が必要となります。現代的な計算をすると10トンダンプ約4,800台に相当します。さらに、2メートル、3メートルの盛土となればその2倍、3倍となります。本丸部分だけでなく、二の丸や他の部分も埋め立てによる造成であれば膨大な土量を必要としたことでしょう。
最後に、以前から疑問に思っていることを記しておきたいと思います。平成11年(1999)に発刊された『図説大津の歴史上巻』の「大津城縄張推定復元図」を見てみますと、堀の部分がすべて水色に塗られ、あたかも琵琶湖から外堀まで水が入り込んでいるように表現されています。しかしながら、自然に琵琶湖の水を外堀まで引き込むには、地形の傾斜から考えてかなり大がかりな石垣を必要とします。札の辻あたりの海抜は96メートル前後です。発掘調査の結果から、大津城期の琵琶湖の水位を84.8メートルと仮定しますとその標高差は11メートル以上になります。つまり、11メートル以上の深さの堀を掘り、石垣を築かなければ水を引き込むことは出来ないことになります。このような石垣を築くことは、当時として技術的には可能であったかもしれませんが、果たして実際に築いていたのでしょうか。
大津城については、まだまだ謎が多いように思います。今後の発掘調査の成果や古絵図の発見に期待したいと思います。

(学芸員 青山 均)