大津市歴史博物館

博物館の活動紹介

第42回 博物館の新収蔵品について(平成24年度)

 博物館では、散逸しがちな地域の史料や文化財を積極的に収集・保存しています。今回は、平成24年度の新収蔵品を紹介します。



大津絵 天神

大津絵 雨宝童子  1幅  江戸時代 紙本著色 (購入)

雨宝童子を描いた希少な大津絵。雨宝童子は、天照大神が日向に下向された時の御姿と伝えられ、大日如来の化身とも言われる。 大津絵として描かれた雨宝童子図は、これまで日本民芸館所蔵本しか確認されていない。本作は、三枚継で合羽摺りも少なく、日本民芸館本と比較しても、肉筆描写の筆数がかなり多い。本作は、それらを踏まえると、17世紀中期の日本民芸館本に対し、寛永年間にかかる17世紀前期の、雨宝童子としては、最古級の作と推定される。



手彩色古写真 大津石山

保永堂板 東海道五拾三次之内 土山 歌川広重画  1枚  江戸時代 紙本錦絵版画 (購入)

版元保永堂から天保4年(1833)に版行された歌川広重(1797-1858)の代表作保永堂板東海道五拾三次のうちの土山宿。本図における情景描写は、保永堂板五十三次の中においても評価の高いもののひとつであり、近江の宿駅の中では、最も抒情的な描写となっている。 雨足の強い中、宿場本陣へと街道を急ぐ大名行列。合羽を羽織った先頭の槍持ち奴たちが、うつむき加減なのは、もはや夕暮れ前で、一日行軍した疲労がピークに達しているのだろう。寡黙になった行列に向かって、大雨で増水した渓流が勢いを増して響き、薄暗い林間に行列の雨合羽が鮮やかに映える。



手彩色古写真 大津石山

丸子船朝敦図 渡辺公観筆  1幅 大正時代 絹本著色 (購入)

渡辺公観(1878−1938)は、大津出身の日本画家。彼は、師の森川曽文が26歳の時に没した後、他の画塾に属することもなく、独立無所属系の画人として文部省美術展覧会出品をつづけ、幾度も入選を重ねた大津の重鎮画家である。また、文展が改組され、帝展が発足した折に、その審査基準に批判を表明した京都画壇の画家たち(山元春挙門下が中心)とともに、日本自由画壇を結成し、発表の場とした。
彼は、琵琶湖独特の丸子船を描いた襖絵の大作「丸子船泊図」を市内大門通の旧家で手がけているが、本作は、その一場面の縮小版といえる。 本図は、ムシロの掛け方をはじめとする丸子船の船上の様子が克明に描写されており、近代における丸子船の使用実態ならびに船容をうかがう上で興味深い資料といえる。



横井金谷 朝熊山雨宝童子図 大津絵 天神
流木 柴田晩葉筆 月下漁舟図 柴田晩葉筆

流木(ながれぎ) 柴田晩葉筆  1幅  江戸時代 絹本墨画 (購入)

柴田晩葉(しばたばんよう1885-1944)は、大津新町(現:大津市中央)の出身。京都市立美術工芸学校研究科を明治41年卒業後、京都市立絵画専門学校二期生として同45年に修了し、山元春挙に入門。大正時代幕開けとともに画壇に登場した。当時の最先端の美術モードから影響を受けた、モダンな作品を手がける一方、牧歌的な詩情にあふれた作品も制作した。第6回・8回・10回・12回文展および第8回・第12回帝展に入選。
作品は、打ち寄せられたであろう流木を拾うおばあさんと、のどかな岸辺の民家の風情を描いたもの。モダンな色彩感覚やモチーフ形態の描写をみせながら、作品全体は牧歌的な情景表現 となっており、晩葉の作風の特徴が発揮された作品である。



月下漁舟図 柴田晩葉筆  1幅  大正時代  絹本著色 (寄贈)



滋賀県管内地理書 滋賀県管内地理書
滋賀県管内地理書

青楓飛瀑図・紅葉小禽図・花鳥・雑画色紙 柴田晩葉筆
  2幅および5枚  大正・昭和時代  絹本著色・紙本著色 (寄贈)



富山売薬置薬箱

富山売薬置薬箱  1点 昭和戦前 木製(寄贈)

富山の薬売りの商いは、あらかじめ各家庭に薬箱を置き、使用した分だけの料金を徴収し、薬を補充するという方法で評判を呼んだ。年配の人たちは、富山の薬売りが大きな風呂敷に荷物を背負って、各家庭にやってきたこと、紙風船を貰ったことなどを懐かしく話される。今回の2点はいずれも富山売薬の置薬箱で、森正栄堂、麦島薬局などの店名が刷られているもの。戦前の市民生活の様子を知る貴重な歴史資料といえる。



露国皇太子殿下見舞品献上に付礼状

餅九蔵関係資料 一括(28点) 江戸〜昭和時代 (寄贈)

餅九蔵は、本姓を加藤氏といい、享保16年(1731)に膳所木ノ下村に生まれる。明和6年(1769)に藩主に召されて中間組に入り、山番を命じられて、以後荒地を開墾して杉苗を植樹し続けた。文化3年(1806)に職を退いた時には、25町歩、数万本に及んだといわれる。これら植林は、水源を養い、城郭修理や再建用材として活用された。文化5年に78歳で没し、法性寺に葬られる。「餅九蔵」の名称は、九蔵の大の餅好きというエピソードから。本資料は、 幕末から明治・大正・昭和にいたる家政関係資料で、歴代九蔵の由来書などもある。餅九蔵以後の家の歴史だけでなく、地域・植林史・治水史の重要史料である。