大津市歴史博物館

博物館の活動紹介

第22回 戦時中の水上飛行機訓練所の貴重な写真見つかる

(1)発見の経緯

 このたび歴史博物館に、市内在住の佐藤生寿氏(たかなが、87歳)から、戦時中の水上飛行機訓練施設であった天虎(てんこ)飛行研究所の活動を示す貴重な写真アルバム2冊(写真は全136枚)の寄贈のお申し出を受けた。このアルバムの寄贈について仲介をしてくださったのは、自衛隊のOBで、かつて大津市内にあった航空隊などの軍事施設を調査されている安藤敏行氏(58歳)。本年7月、調査の一環として歴史博物館に来館されたことを契機に、佐藤氏に、博物館にアルバムを寄贈されてはどうかと薦められ、今回佐藤氏とそのご家族から寄贈のお申し出を受けることになったものである。

(2)天虎飛行研究所とは

 同研究所は、昭和10年6月2日、大津市馬場の琵琶湖畔に創立された民間水上飛行機訓練施設。創立者は逓信省海軍依託航空機操縦課程を終えて、愛知県知多半島の安藤飛行研究所(所長・安藤孝三)で教官をしていた藤本直(ただし、当時21歳)。藤本は、琵琶湖畔の馬場の地にあった京都新聞社の格納庫を購入、また安藤飛行研究所から水上練習機を譲り受けて開設し、名称は、藤本が寅年生まれでもあり、「ゴッドタイガー」とするつもりで知人の海軍中将に相談したところ、日本名の方が良いと言われ、また「天翔ける虎」から「天虎(てんこ)」と命名してはとのアドバイスを受け、決定した。ただ市民には「テントラ」と愛称されていた。
翌年には逓信大臣より遊覧運送事業の認可を受け、琵琶湖上での遊覧飛行や宣伝用のビラまきなどを始めたが、昭和12年から、本格的な水上飛行機の操縦訓練を実施、多くの訓練生でにぎわったが、そのなかには時代劇のスター嵐寛寿郎も居たという。そして後には、逓信省航空局の乗員養成所となり、昭和18年からは海軍予備学生の養成にあたることになった。昭和19年、戦況が悪化するなかで、同訓練生からは「特別攻撃隊」を志願する者も現れ、特別訓練も施されたが、出撃をみないまま昭和20年8月15日終戦となり、施設は米進駐軍によって取り壊され、ここに10年間の活動の歴史に幕を閉じた。なお同研究所の出身者からは、戦後の民間航空を担う人材が数多く生まれている。

(3)写真アルバムとその意義

 アルバム2冊(写真82枚と54枚の合計136枚)に、天虎飛行研究所での訓練風景などの写真が貼り付けられている。うち1冊には、「飛行整列、所長訓示」「搭乗準備」」「離岸」「水上滑走」「台車用意」「引上」「浮舟(ふしゅう)点検」「格納」など、訓練の一部始終が分かるように、タイトルが墨書きされており、当時のきびしい訓練の様子が理解できるようになっている。もう1冊には、「天虎飛行研究所」の標柱のある同所入口や周囲の町並み写真、訓練生の整列や食事風景などの写真が貼られている。またそれら訓練風景写真には、当時の周辺の湖岸風景なども遠望に写っている。かつて大津市内には、滋賀海軍航空隊(唐崎)、大津海軍航空隊(際川)、陸軍少年飛行兵学校(別所)、比叡山上の特攻基地などの軍事施設があり、現在、琵琶湖と緑の山々に囲まれた風光明媚な観光都市といったイメージの本市からは想像できない「軍都」の性格を持っていた。戦後60年以上が経過し、戦争体験や記憶の風化が話題になっているなかで、今回の写真アルバムは、かつての「軍都・大津」の様子を今に伝える「歴史の証人」の役割を果たす貴重な資料と評価できる。

(5)寄贈者佐藤生寿(たかなが)氏の履歴

 同氏は大正8年(1919)12月名古屋市生まれ。佐藤氏が飛行機乗りを志したのは昭和8年(1933)4月、小学校高等科2年(満13歳)のとき。彼は父親の知人の紹介で愛知県の安藤飛行研究所を紹介され、昭和9年に入所。操縦教官の藤本直(前掲)に誘われ、創立期の天虎飛行研究所に移った。ここで念願だった水上飛行機の操縦に携わることになり、二等・一等航空機操縦士の免許を取得され、後輩の指導にあたられた。戦後は産業経済新聞社(現サンケイ新聞)航空部、日東航空に勤務され、東亜国内航空で定年を迎えられた。

歴史博物館での展示

 歴史博物館では、写真アルバムのなかから約20枚を選んで写真パネルを作成、エントランスホールにおいて下記の期間披露する。


平成19年8月15日(水)から8月31日(金)まで。入場無料。

(本館学芸員 樋爪修)