大津市歴史博物館

博物館の活動紹介

第34回 博物館の新収蔵品について(平成21年度分)

 博物館では、散逸しがちな地域の史料や文化財を積極的に収集・保存しています。今回は、平成21年度の新収蔵品を紹介します。



1 大津絵図帖型紙  一括(200枚) (購入)

大津絵の合羽摺りに用いられる柿渋の型紙。一枚版大津絵に用いられる型紙よりも、さらにひとまわり小さい型紙である。切り抜かれた型の形状や、画題の種類の豊富であることから、これらの一括の型紙は、大正9年(1920)に、京都のだるま屋から版行された多色摺り木版画帖の『大津絵図帖』(楠瀬日年画)であることが判明する。



2 紀楳亭 毘沙門天像 1幅 (購入)

紀楳亭(1734-1810)は、、山城国鳥羽の生まれ。与謝蕪村に絵と俳諧を学ぶ。楳亭は師に忠実に倣いつつも、彼独自の温和で屈託のない表現で、蕪村風を継承し、近江蕪村と呼ばれた。同門に、大津石川町長寿寺の僧、龍賀がおり、天明8年の京都大火に罹災した折は、龍賀を頼って大津に移住した。その後、ほどなく「湖南九老」と号するようになった。 本作は、寛政4年(1792)、正月初寅の日の作と款記にあり、大津移住後の作品としては早期の作例。正月の試筆と思われる。箱蓋表には、「毘沙門天尊像湖南大津町南梅林亭々於而九老翁写筆」と、当時の箱書きがある。

大津絵図帖型紙 毘沙門天像 紀楳亭
大津絵図帖型紙 紀楳亭 毘沙門天像


3 大津・京都間道造絵図 1巻 (購入)

 標題は「文化元甲子年 東海道筋大津より京都迄往還并牛車道共難場之分道造絵図」と記されており、文化元年(1804)の大津・京都間の車石敷設に伴い作成された絵図であることが分かる。絵図は、京都三条大橋から大津旧清水町までを描き、置土・敷石(車石か)・輪型割り石伏せの施工箇所ごとに色分けされている。街道筋には、それら施工の別とともに、町名、川、土手、水抜き場、一里塚、社寺などを注記しており、現在の街道筋に正確に比定できる。文化元年に限らず、これ程詳細に描いた工事図面は他には見られず、今後さらに検討が必要なものの、非常に貴重な資料である。

大津・京都間道造絵図(部分)
大津・京都間道造絵図(部分)


4 紀楳亭 瀧渓山家図 1幅 (購入)

 山水図。崖に張り付く山家と、それを結ぶ山道の様子がいかにも親しみやすく描かれている。落款や画風から、寛政年間(18世紀末)、紀楳亭が大津に移り住んだ時期の制作と考えられる。

紀楳亭 蜀桟道図
紀楳亭 瀧渓山家図


5 大津絵十種木偶型首人形 2点、木版大津絵矢の根団扇 1点 (草津市・斎藤文雄氏寄贈)

 大津絵の代表的な画題十種の土人形。かつて、本市の土産物として大好評を博したが、昭和40年頃には生産中止となった。大津市の観光の歴史を語る貴重な民俗資料である。また団扇は当時贈答用として作られたもの。

大津絵十種木偶型首人形 木版大津絵矢の根団扇
大津絵十種木偶型首人形 木版大津絵矢の根団扇


6 五言絶句 杉浦重剛筆 1幅 (大阪市・阿原靖子氏寄贈)

 杉浦重剛は、安政2年(1855)、膳所藩の儒学者杉浦重文の次男として膳所城下別保に生まれる。膳所藩校遵義堂に学び、明治3年(1870)膳所藩の貢進生として大学南校(東大の前身)に入学。後、イギリス留学を経て、東京大学予備門長。明治20年、井上馨外相の条約改正反対運動に身を投じ、また三宅雪嶺・島地黙雷らと政教社を設立、雑誌「日本人」を発行、国粋主義を唱えた。一方、明治23年、衆議院議員に当選するが、ほどなく辞任。晩年は東京英語学校の校長を勤めた。大正3年(1914)東宮御学問所御用掛に就任。同13年(1924)2月13日没。享年70歳。書は、西行作とされる五言絶句。左下部に「杉浦重剛」などの印章が配置されている。

五言絶句 杉浦重剛筆
五言絶句 杉浦重剛筆


7 杉浦重剛書簡 永元愿蔵宛 1通 (大津市・岡角智次氏寄贈)

 宛先の永元愿蔵(1855〜1922)は、杉浦と同じ膳所の生まれ、大阪で小学校助教などをしていたが、明治11年(1878)から甲府日日新聞を皮切りに、大阪朝日新聞、京都滋賀新報、雑誌「日本人」などで文筆活動を行った。封筒の消印「10.7.29」、及び内容から、同書簡は大正10年7月19日に書かれたものと分かる。内容は、「殉難先輩之伝記御再校之由、至極結構・・」の記述から、永元が、幕末の膳所十一烈士に関する記録を発刊しようとしていたこと、また、明治末期に大津市長をつとめた西川太次郎(1864〜1942)が、幕末の学者川瀬太宰に関する書籍を発刊していたことなどが記されている。

杉浦重剛書簡(部分)
杉浦重剛書簡(部分)


8 国策湯丹保 1点 (大津市・武内正氏寄贈)

 戦時中、戦争遂行のための兵器生産に充当するため、あらゆる金属性の生活物資が供出され、その代替として「代用品」がつくられた。そういった動きは、昭和13年(1938)頃から始まったようで、供出の対象とされたのは「鋼及び銑鉄、銅、白金、鉛、亜鉛、錫・・」で、鉄鋼その他の金属の代用品としては、陶磁器、木製品などが奨められた(昭和13年7月20発行『週報』内閣情報部)。今回のような湯たんぽは、代用品の典型として数多く見られるが、表面に「国策湯丹保」と、その意図が明示されているものは、そう多くは残されていない。

国策湯丹保
国策湯丹保


9 軍事郵便他絵葉書 31枚 (大津市・戸川義治氏寄贈)

 軍事郵便絵葉書23葉、比叡山の風景絵葉書8枚の合計31枚からなる。軍事郵便31枚のうち、8枚には「検閲済」の欄が設けられており、陸軍需品本庁」の表示があり、残りの15枚は「陸軍恤兵部発行」と記されている。軍事郵便の図柄は戦闘的なものは無く、女性や子供、また故郷の風景や生活を想起させるような穏やかなものが多い。また絵面に添えられた俳句には、芭蕉・蕪村・一茶・虚子などの名前が見える。一方、絵葉書の作者には、飛田周山・高橋正・奥田元宋・若林翠光・池上秀畝・小倉静三・松本姿水・北村明道などの名前が見える。大津あるいは県内の歴史を直接示すものではないが、戦時中の兵士や銃後の人々の暮らしぶりを類推できる貴重な資料であり、今後の展示にも活用可能と考えられる。

軍事郵便他絵葉書
軍事郵便他絵葉書


10 河田小龍 松下寒山拾得図 1面 (大津市・三品芙美氏寄贈)

 作者の河田小龍(1824〜98)は、土佐藩士で絵師。また坂本龍馬を啓発した知識人としても知られる。琵琶湖疏水図を描くなど、大津にもゆかりが深い。



11 楠正成・正行桜井別れの図 二曲一隻 (大津市・松田孫康氏寄贈)

 瀬田尋常高等小学校で、昭和4年(1929)に落成した講堂の正面の両側には、楠正成・正行親子の桜井別れの図と、中江藤樹が母に会いに来る図が掲げられていた。戦争に向かう世相のなか、一対で「忠孝」を表したものと考えられる。本作は、その桜井別れの図で、長らく地元の卒業生が保管されていたもの。

楠正成・正行桜井別れの図
楠正成・正行桜井別れの図


12 近江八景湖水名所図絵 一紙 (大津市・久保貞雄氏寄贈)

 明治29年(1896)の出版になる近江八景図。湖上には蒸気船が浮かび、瀬田唐橋の北側、画面向かって右手には東海道線の鉄橋を描くなど、近代の息吹が伝わってくる。

近江八景湖水名所図絵
近江八景湖水名所図絵


13 瀬田尋常高等小学校絵葉書 1枚 (大津市・久保貞雄氏寄贈)

 右手建物の屋根上に、今も瀬田小学校に保管されている旧膳所城の鯱瓦がわずかに見える。

瀬田尋常高等小学校絵葉書
瀬田尋常高等小学校絵葉書


14 清水家資料 12点 (大津市・清水良一氏寄贈)

 大正11年の第一回国勢調査の写真集(3冊)、大津市市勢要覧(昭和6年)などや、戦時中の衣料切符、種痘済証などの資料からなる。とくに「日本国勢調査記念録」には、当時の調査の施行細則や手順、宣伝ポスターの写真など、また第3巻には、滋賀県下の調査員の写真や履歴が掲載されるなど、県下での調査実態が判明し、日本近代史の研究においても貴重なデータといえる。

国勢調査記念録
国勢調査記念録


15 大津陸軍少年飛行兵学校資料 6点 (京都市・中川義男氏寄贈)

 戦時中、現大津商業高校敷地内に設置されていた少年飛行兵学校関係の資料。出征の際に贈られる日の丸の寄せ書きや訓練風景写真など。

日の丸寄書
日の丸寄書




16 伊藤家第二次世界大戦戦時資料 214件 (大津市・伊藤元彦氏寄贈)

 戦時中の町内会の回覧板や衣料切符、大日本国防婦人会関係などの資料が含まれている。

新聞 部分
燈火管制の図(部分)


17 兵隊人形 1個 (大津市・個人寄贈)

 像高は約10センチと小さい。陸軍の兵隊をかたどった土人形。戦時中の子供の生活を知る恰好の資料といえる。

兵隊人形
兵隊人形