博物館の活動紹介
第40回 博物館の新収蔵品について(平成23年度2期分)
博物館では、散逸しがちな地域の史料や文化財を積極的に収集・保存しています。今回は、平成23年度2期の新収蔵品を紹介します。
大津絵 天神 1幅 江戸時代 紙本著色 (購入)
大津絵天神の中でも、古様な図像を示す作品。同様の図像の作品が、これまで数点確認されている。
大津絵の天神は、現時点で、大津絵が確認される最初期の文献『似我蜂物語』(寛文元年)に登場する画題である。本作は、束帯における胡粉の衣文線や、目鼻をはじめとした面貌の描写、梅の花弁をはじめ、随所に達者な運筆による肉筆描写が多用されていて、17世紀末頃からはじまる省筆化、粗画化、量産化の流れで生まれた世俗画大津絵とは、一線を画している。
横井金谷 朝熊山雨宝童子図 1幅 天保元年(1830) 紙本著色 (購入)
草津出身で、坂本で没した文人画の画僧・横井金谷(1761-1832)による晩年の作。金谷は、与謝蕪村に私淑し、蕪村風山水図の描き手として評価されたことから、近江蕪村の異名で呼ばれる。また、山水画ばかりでなく、蕪村ばりの軽妙な俳画も少なくない。本作は、それら蕪村風の作例とは一線を画すもので、金谷画としては極めて希少な神道垂迹画である。
松林独往図 皆川淇園自画賛 1幅 江戸時代 絹本墨画 (購入)
膳所藩主・本多康完に、天明八年(1788)に聘師として招かれた京都の大儒、皆川淇園(1735〜1807)は、藩主への漢学の進講、藩政の諮問相手にとどまらず、藩校・遵義堂の設立を建白するなど、教学面の振興に尽力し、藩士の学問水準向上や、子弟教育に多大な貢献があった。
本作は、清澄な秋の冷気が感じられる夕暮れ時の山中を高士が独り逍遥する中国風文人山水図となっている。秋冷の大気感が伝わってくるような、繊細で淡い水墨の諧調に、淇園の詩心がうかがわれる。
手彩色古写真 大津石山 1点 明治時代 鶏卵紙淡彩 (購入)
明治期に撮影された手彩色による古写真。現在の京阪電車石山寺駅あたりから、石山寺方向に撮影されており、当時の石山寺門前の様子がよく分かる写真といえる。写真には写真番号と撮影場所が英文表記されていることから、日本への外国人観光客向けに作成された、いわゆる「横浜写真」だと考えられる。同構図の写真は長崎大学附属図書館のコレクションにスチルフリード撮影のものが確認されており、当時の撮影スポットとして石山寺周辺が選ばれていたことがわかる。
近江地誌 1冊 明治27年(1894) (購入)
明治27年に滋賀県私立教育会によって編纂され大津上京町の淡海堂書店から販売された地誌。 郡毎の特徴を書き上げる点に特徴があり、全国における近江の位置、地勢、面積、戸数、人口、気温などの概略を記す。また、図を挿入しながら各郡内の特徴的な地域の概略を記し、大津市域に関わる記述は、大津、坂本、堅田などである。
滋賀県管内地理書 1冊 明治10年(1875) (購入)
滋賀県で初めて刊行され、大津丸屋町の澤宗次郎によって出版された地誌教科書。編纂者は高知県士族で、文部省、滋賀県学務事務課長を歴任した奥田栄世。全34丁。 内容は、近江国の概要からはじまり、山川などの地勢を記し、次いで滋賀県内の主要地域の概要を略述する。大津市に関係する記述は、大津、膳所などの主要都市部であり、市街図も挿入しながら、読者に全体的な理解を促す意図があったことがわかる。
日吉三橋之図 梁古筆 1幅 慶応2年(1866) (寄贈)
幕末に、実景に即して日吉三橋を描いた真景図。三橋周辺の境内地や樹林の様子や、上流域の滝や渓流の景観も、あわせて実景に即して描かれている点は貴重である。 これらの景観は、通常、山王祭礼図屏風の部分景観として描かれるケースが殆どであるが、独立した掛幅作品として描かれている点は、この三橋自体が名所として、近代において認識されていく流れと符合するものであろう。 その名所観がすでに幕末には存在していることを示す作品といえる。 ちなみに、作者の梁古については不詳。
平安建都千百年記念木版桓武天皇御宸影図 1幅 明治28年(1895) (寄贈)
平安建都1100年を記念して、その翌年に、桓武帝への「報恩謝徳の意を表彰し壱百日間根本中堂において一乗の法味を供し紀念大法會を勒修し」、「この紀念を将来に傳へむがため巨勢廣貴公の真筆に係る聖皇の御宸影と小野篁公の親筆なる宗祖の御尊影とを雙幅に謹寫せしめ、もつて本宗の各寺院並に有志檀信徒に頒與せん」ために制作された木版摺りによる肖像掛幅。 本作はあくまでも版画であるため、今後、原本の調査をまちたい。
日枝三橋上酒宴図 富岡鉄斎自画賛 1面 明治時代 (寄贈)
富岡鉄斎(1836-1924)が、明治期に坂本を来訪していたことは、山門公人屋敷岡本家に残る席画揮毫の衝立や書画から推定されていたが、本作はそれを具体的に物語る資料。 日吉三橋のうち走井橋の上で、鉄斎らが催した酒宴の際に、席上揮毫で描いた作品。作品には合計4名の人物が描かれているが、鉄斎以外の3名は不詳。
焼葉煖酒 富岡鉄斎筆 1面 明治時代 (寄贈)
席画の日枝三橋上酒宴図と同じタイミングで揮毫された作品。本作も、宴席上で揮毫されたと思われる。「焼葉煖酒」の文言から、日吉三橋での酒宴は、落ち葉を焼いて熱燗にし酒を呑んだことが判明する扁額。書体は、隷書の書法が加わった楷書となっている。明治30年前後、鉄斎は金冬心風の隷書を盛んに揮毫しているため、本作も、その時期に近い揮毫と推定される。
俳句 比叡山を越えて 荻原井泉水筆 一幅 昭和時代 (寄贈)
荻原井泉水(1884-1976)は、新傾向俳句の俳人。明治44年(1911)機関紙「層雲」を主宰。河東碧梧桐らと活動する。のち、無季語自由律俳句を提唱する碧梧桐とは袂を分かつが、「層雲」には新たに尾崎放哉や種田山頭火が加わる。井泉水は、東京出身だが、大正12年に妻、翌年に母を相次いで亡くしから、一時、東福寺の塔頭に寄寓して仏道を志したりした。以後、各地を旅に遊歴することが多くなる。 本作は、比叡山を山越えして、日吉大社に紅葉狩りに訪れた折、詠んだと思われる句。 「古かえで 三橋の茶屋に おりつきぬ」 日吉三橋付近の茶屋の軒先を、秋の期間ずっと彩っていた鮮やかな紅葉葉が、盛りを過 ぎて、今この時、井水泉の前にはらはらと、舞い落ちてきた。その様子を、平明な写生俳句調で詠んでいる。
東海道五十三次蒔絵杯・杯台 13客・1基 明治時代 (寄贈)
幕末期の製作になると思われる無銘の朱塗蒔絵の入子杯13客および杯台からなる什器。。起点の日本橋(江戸城)が最も口径が大きく、京師三条大橋が最小となる。各杯の意匠は見込みの面積に応じて、1駅単独のものから6駅を寄り合わせたものとなっている。面積に余裕がある杯の場合は、宿駅以外に、著名な景物を加えている。ただし題箋のほとんどが剥落しており、比定が困難な宿駅や景物が存在する。
伊万里染付木賊兎文三ツ組皿 1組 明治時代 (寄贈)
薄手で精巧に成形された伊万里の染付。無銘。絵付けも、細線によって乱れなく精緻に描写されており、明治期らしい高度な技術をみせる。意匠には、木賊につがいの兎および十六菊が表されている。木賊、兎ともに繁殖力が強く、一家・一族の繁栄を願って、広く用いられた画題である。
坂本名所誌 吉田初三郎画 1点 大正5年(1916) (寄贈)
坂本保勝会(代表者は坂本村村長)が発行した名所案内。比叡山を大きく描き、その中に堂舎や里坊付近の町並み、汽船乗り場等を丁寧に描いていており、江若鉄道開通前の坂本の観光地としてのあり様を知ることが出来る。初三郎の鳥瞰図製作の出発点となった「京阪電鉄鳥瞰図」の制作が大正2年であるため、本作品は初三郎の初期の作品といえる。初三郎の特徴である遠方をデフォルメした独特の構図をみることができないが、初三郎はその後、「比叡山延暦寺名所図会」(大正10年発行・当館所蔵)でも同構図の鳥瞰図を手掛けており、それらと比較することで、初三郎の鳥瞰図の変化を知ることが出来る。
びわ湖大博覧会関係資料 一括 昭和時代 (寄贈)
昭和43年に大津で開催された、びわ湖大博覧会の実施設計を行なった砂畑重雄氏旧蔵資料。博覧会会場の写真を中心に、パンフレット・新聞記事の切り抜きなどが含まれている。写真は開会前の様子を撮影したものがほとんどで、工事中の様子がよく分かる。新聞記事については、砂畑氏を中心に開発した段ボールを利用した新建材が会場内のパビリオンに利用されるという記事であり、大変興味深い。
松本英雄氏撮影航空写真 一括 昭和時代 (寄贈)
かつて浜大津にあった関西航空の水上飛行機のパイロット、松本英雄氏が撮影した航空写真。撮影エリアは、当時の遊覧エリアである滋賀・京都を中心に、関西圏や四国など多岐にわたる。総点数は約250枚。パイロットならではといえる上空からの俯瞰写真は、撮影年代昭和30年代後半から昭和40年代前半にかけての町並み等が詳細かつ広域に記録されており資料価値が高い。
二谷信太郎氏撮影写真 一括 昭和時代 (寄贈)
寄贈者である二谷信太郎氏が、昭和40〜50年代に大津市方面に観光に訪れた際に撮影した写真約270点。紅葉パラダイスやびわ湖バレイなど、昭和40年頃から琵琶湖周辺に次々と開設されたレジャー施設を中心に、当時の琵琶湖周辺の観光地の様子が記録されている。氏は京都市在住であるが、当時足しげくこれらの施設に通っていたそうで、写真群全体から当時の大津の観光のあり様を知ることが出来る資料といえる。
防火水槽 1槽 昭和時代 (寄贈)
太平洋戦争時、日本には多くの木造家屋があつたため、アメリカ軍は焼夷弾を投下し焼き払おうとした.本資料は、このような空襲に備えて設置した防火水槽である。防空に関するマニュアルである『時局防空必携』(昭和16年12月10日発行)では、ふだんの準備として普通の家では、一戸あたり約100リットル以上用意するように指導し、その容器の一つとして防火水槽が利用された。 大津市内における防火水槽の設置は、山田実家に残る戦時資料から昭和18年頃から本格化したとみられる。本資料は、このような戦争を今に伝える貴重な遺物である。