大津市歴史博物館

学芸員のノートから

第53回 博物館の新収蔵品について(令和元年度)

 博物館では、散逸しがちな地域の史料や文化財を積極的に収集・保存しています。今回は、令和元年度の新収蔵品を紹介します。



大津絵 鬼の念仏 江戸時代 1幅(購入)

 18世紀前半の大津絵 鬼の念仏。肉筆の刷毛引きだった怒髪が合羽摺りとなり、前歯の数も減ってますが、鬼の足は、人間と同様の五本指の足へと図像が変容してゆくので、本作の鬼は、その姿へ移行する前の過渡期の鬼といえます。秀逸なのはお顔の脇。まるでご機嫌モードな漫符(漫画記号)があります。これ、実は漫符にあらず、簡略化された髭なのです。

大津絵 鬼の念仏

大津絵 鬼の念仏



蕪村句「ところてん」俳画 紀楳亭筆 江戸時代 1枚(購入)

 与謝蕪村の門人で、近江蕪村と呼ばれた紀楳亭(1734〜1810)の作品。蕪村の俳画さながらに、のどかな水茶屋で給仕する茶屋娘を描いたもの。余白には蕪村の句「ところてん 逆しまに銀河 三千尺」を楳亭が着賛、本作が蕪村の俳句にちなんだことがわかります。

蕪村句「ところてん」俳画 紀楳亭筆

蕪村句「ところてん」俳画 紀楳亭筆



紀事・登高記他(岩垣月洲撰) 江戸〜明治時代 1冊(購入)

 岩垣月洲(1808〜1873)は、江戸時代後期〜明治初期の儒者で、杉浦重剛の師にあたる人物です。学習所教授の月洲のもとには、歴史画の着賛や先人の顕彰碑などの、撰文についての依頼が多数、舞い込んでいたようで、本書は、それらをまとめた撰文集的なものだと思われます。その学識は広範にわたっており、まさに重剛が「識見は之を月洲先生に受けた」と述懐したことが得心される内容です。

紀事・登高記他(岩垣月洲撰)

登高記



本多康穣書状 江戸時代 1面(購入)

 膳所藩第12代藩主の本多康穣〔ほんだやすしげ・天保6年(1836)〜明治45年(1912)〕が、家老・本多豊七郎に宛てた書状です。在京していた康穣に「鮮魚」が贈られたことに対しての礼が述べられています。新鮮な琵琶湖の魚だったのかもしれません。この康穣書状には、贈り物(魚)の御礼のほかに、「当地(京都)も静かになった」とあります。康穣は、元治元年(1864) 8月の「禁門の変」の際、御所警護を勤めたことから、その後の様子を伝えたものとも思われます。

本多康穣書状

本多康穣書状



大津絵人形 永楽屋製 大正〜昭和(戦前)  1組(購入)

 大正〜昭和には、数多くの大津絵人形が作られましたが、こちらは金彩で彩られた豪華な人形。大津・長等の料亭主人・高橋久治郎が永楽屋の名で敷地内に窯をひらき、大小様々な種類を制作し、高級品として立派な木箱に入れて販売されていました。

大津絵人形 永楽屋製

大津絵人形 永楽屋製



大津町絵図写 昭和時代 1鋪(購入)

 江戸時代の大津町を上から見て描いた絵図です。ただし、これは大正・昭和期の在野の大津城研究者、田中宗太郎氏が写したもの。絵図中には、もともと「南佐久間氏」の所蔵絵図を写すといった書き込みがありました。「大津町絵図写」の原本となる絵図は、大津代官手代の佐久間氏のもとで作成されたものであることがわかり、さらに大津町古絵図(市指定文化財・個人蔵)など、大津町を描いた類似する絵図の多くが、大津代官による町支配のために作成された可能性があることがわかります。

大津町絵図写 昭和時代

大津町絵図写 昭和時代



大津町之内浜通之図 江戸時代 1鋪(購入)

 横幅が約180pに及ぶ長〜い絵図です。描かれているのは、江戸時代の大津町の湖岸部分。ここに置かれた数々の大名蔵屋敷の位置が詳細に記されています。作成年代は、享保4〜6年頃(1719〜21)で、ちょうど大津町支配が京都町奉行へ移管される直前です。

大津町之内浜通之図

大津町之内浜通之図



改定諸識往来(黒田行元著) 明治時代 1冊(購入)

 明治維新期に膳所藩校遵義堂において洋学・漢学の講義をおこなった、黒田行元(麹蘆・きくろ)の著した書物です。内容は、明治維新以後の官民職制の変遷、商工業、諸職人の概略を述べたものです。手習い本としても用いられたようです。

改定諸識往来(黒田行元著)

改定諸識往来(黒田行元著)



民法大意 上下(黒田行元著)  明治時代 2冊(購入)

 明治維新期に膳所藩校遵義堂において洋学・漢学の講義をおこなった、黒田行元(麹蘆・きくろ)の著した書物です。内容は、民法・国法・政権・民権など多岐にわたります。凡例より、西洋典籍と和漢の間に潜む誤読や誤訳を避けるために執筆したものと思われます。

民法大意 上下(黒田行元著)

民法大意 上下(黒田行元著)



源氏乃君近江八景遊覧之図 豊原国周画 江戸時代 1組(受贈)

 幕末・明治の浮世絵師、豊原国周によるもの。源氏物語のやつし絵として、仲秋の名月がのぼる琵琶湖上に月見船を浮かべ、光源氏に見立てた人物が舞妓・芸妓の余興を楽しむ場面が、近江八景とともに描かれています。

源氏乃君近江八景遊覧之図 豊原国周画

源氏乃君近江八景遊覧之図 豊原国周画



風水閣襖絵 渡辺公観筆 附「風水閣」扁額 大谷句佛筆 大正時代 23面(受贈)

 市内の旧家に存在した、丸子船泊図4面をはじめ、水郷図、漁樵問答図、群雀図、千鳥図(天袋・地袋)からなる襖絵群。近江製糸社長、長浜銀行頭取、長浜町長を歴任した二代下郷伝平が、大正年間、琵琶湖疏水畔に別荘「風水閣」(東本願寺23世、大谷句佛が命名。句佛揮毫の扁額あり)を造営するにあたり、大津出身の画家、渡辺公観に依頼したものです。とりわけ丸子船泊図は、ムシロの掛け方をはじめとする丸子船の船上の様子が克明に描写され、近代における丸子船の使用実態や船容がよくわかります。

風水閣襖絵 渡辺公観筆

風水閣襖絵のうち丸子船泊図 渡辺公観筆



白衣観音図 町田久成筆 明治時代 1幅(受贈)

 町田久成(1838〜1897)が描いた白衣観音図。町田久成は、現在の鹿児島県鹿児島市に生まれた旧薩摩藩士で、明治維新後は官僚として活躍し、日本の博物館行政の基礎を作り上げた人物であり、東京国立博物館(旧帝国博物館)の初代館長を務めました。町田久成は博物局の仕事をするなかで、当時の法明院住職の桜井敬徳(1834〜1889)と知り合い、明治16年(1883)に東大寺戒壇院にて桜井敬徳より受戒しました。また、明治18年には、東京の向島小梅にあった町田久成の別邸にて、岡倉天心、フェノロサ、ビゲローらが桜井敬徳より受戒しています。町田久成は、1日1幅観音像を描いていたとされており(日課観音)、「石谷」という落款から、本図もその内の1幅と考えられます。

白衣観音図 町田久成筆

白衣観音図 町田久成筆



琵琶湖 琴塚英一画 昭和(戦前) 1枚(受贈)

 雪化粧の比良山系を大津港から望む風景版画。停泊する汽船の奥には暖房の煙がたなびく旧琵琶湖ホテル(現びわ湖大津館)が見えます。下絵は琴塚英一(1906〜82)、版行は内田美術書肆。「古都四景」シリーズ (他は三十三間堂、平等院、1景は不明)の1枚と思われます。

琵琶湖 琴塚英一画

琵琶湖 琴塚英一画



三井寺の弁慶力餅 中沢弘光画 昭和(戦前) 1枚(受贈)

 花見で賑わう三井寺(園城寺)観音堂向かいの絵馬堂を描いた木版画。観音堂境内から琵琶湖を望む風景や、当時、絵馬堂内で営業していた弁慶力餅の茶店の様子が、昭和10年代の風俗とともに描かれています。下絵は中沢弘光、版行は加藤版画研究所によるもの。

三井寺の弁慶力餅 中沢弘光画

三井寺の弁慶力餅 中沢弘光画



槍持奴図 柴田晩葉筆 昭和(戦前) 1面(受贈)

 板地に描かれた大津絵。作者は大津新町出身の柴田晩葉(1885〜1944)。画題や作風から書画頒布会用の作品と思われます。槍持奴は道中安全のお守りキャラで、ニーズの多い大津絵画題でした。戦前の大津住民にとって晩葉は身近な日本画を描いてくれる存在でした。

槍持奴図 柴田晩葉筆

槍持奴図 柴田晩葉筆



大津百艘船定書 江戸時代 1通(受贈)

 重要文化財に指定された「大津百艘船関係資料」(当館蔵)とは別に伝来した、寛政12年(1800)に百艘船仲間へ出された特権を認める京都町奉行の定書です。大津からの荷物や旅人の積出しの独占権をみとめたもので、これによって江戸時代、大津町は港町として大いに繁栄することになりました。ただし、定書にはこの特権について、彦根藩領の船は別扱い、といった付帯条項もみられます。これは享保年間に起こった彦根藩領の商人らとの争論の結果、彦根藩領の船も百艘船仲間と同様に大津町からの積出しを認める、というものです。以降、この体制は明治初年まで続くことになりました。

大津百艘船定書

大津百艘船定書



大津中保町江遣ス一札写 江戸時代 1冊(受贈)

 時は天保2年(1831)、大津町の中保町の池田屋みかという人物が困窮のため、同町に家屋敷を売却して生活費にあてた経緯を記した記録です。受け入れた中保町の対応から、町がセーフティネットとして機能していたこともわかります。

大津中保町江遣ス一札写

大津中保町江遣ス一札写



山地猛書簡(軍事郵便)附封筒 昭和(戦前) 1通(受贈)

 奉天関東軍無線電信教習所山本隊に所属していた山地猛という人物が、日本(膳所)に宛てて出した手紙(軍事郵便)です。満州の状況だけでなく、その冬の情景を比良山などと比べつつ、膳所にいる家族のことを案じている様子が読み取れます。

山地猛書簡(軍事郵便)

山地猛書簡(軍事郵便)



秋山公道旧蔵絵葉書 明治〜昭和(戦後) 一括(受贈)

 書家の秋山公道が収集した #絵葉書群 。ざっと計算するだけでも69,000枚におよびます。特徴的なのはコレクションの整理方法で、飛行機や花など、自らが設定したテーマごとに、お気に入りの絵葉書が綴じ込まれています。

秋山公道旧蔵絵葉書

秋山公道旧蔵絵葉書


秋山公道旧蔵絵葉書

秋山公道旧蔵絵葉書


秋山公道旧蔵絵葉書

秋山公道旧蔵絵葉書



菓子司藤屋義重関係資料 明治〜平成 一括(受贈)

 かつて坂本の作り道にあった和菓子店、藤屋義重に関する資料群。菓子の銘を記した看板のほか、延暦寺や西教寺、聖衆来迎寺などの紋菓や、坂本の風景をあしらった干菓子の木型が多くあり、坂本の菓子文化の一端を知ることができます。

菓子司藤屋義重関係資料

菓子司藤屋義重関係資料


菓子司藤屋義重関係資料

菓子司藤屋義重関係資料



官幣大社建部神社御勅祭式典之図 明治時代 1枚(受贈)

 明治32年、官幣大社に列せられた年に行なわれた勅祭の式典の様子を描いた印刷物。絵と印刷は浅井広信(二世木下広信か)で発行者は瀬田橋本の久保庄左衛門によるものです。

官幣大社建部神社御勅祭式典之図

官幣大社建部神社御勅祭式典之図



木村家資料(重要文化財 大津百艘船資料含む) 安土桃山〜明治時代 一括(受贈)

 「大津百艘船」は、天正14〜15年(1586〜87)豊臣秀吉が坂本にあった城を大津に移し、北陸・東国からの物資輸送の拠点とし、大津城主の公用を務めさせるために創設した船持仲間のことで、大津から積み出される人と物資の輸送を独占する特権が与えられ、琵琶湖水運の中心的役割を担いました。今回ご寄贈いただいた資料は、重要文化財に指定された資料ほか、所蔵者宅に関する資料も含まれています。

重要文化財 大津百艘船資料

大津百艘船万留帳(重要文化財 江戸時代)



京都町奉行高札 江戸時代 1点(受贈)

 重要文化財に指定された「大津百艘船関係資料」(当館蔵)とは別に伝来した、大津百艘船の特権を認めた京都町奉行による高札です。署名部分と年号が少し削れて低くなっていますが、これは定期的に京都町奉行が交代することから、その度に訂正していた痕跡です。

京都町奉行高札

京都町奉行高札



京津電車御案内 吉田初三郎画 大正時代 1点(受贈)

 大正元年(1912)開通の京津電気軌道(現:京阪京津線など)の沿線案内。開通当時に作られたものです。大津−京都間は、東海道線がすでにありましたが、山科から伏見へと線路が迂回していため、江戸時代の旧東海道に沿うように新たに計画・敷設されました。描いたのは、自らを大正の広重と称した吉田初三郎(1884〜1955)で、鳥瞰図を得意とした人物です。この沿線案内は、彼が鳥瞰図絵師としての画風を確立する前に制作した珍しいもの。手書きのイラストマップのような案内は分かりやすく、初三郎の表現力の幅が感じられます。大正元年(1912)開通の京津電気軌道は、開通時は京都三条大橋‐札ノ辻駅間を結びました。札ノ辻駅は、今の京阪びわ湖浜大津駅と上栄町駅の間にあった駅です。大正末に道幅が拡がることで、終点が浜大津へ伸びました。

京津電車御案内

京津電車御案内


京津電車御案内

京津電車御案内



京阪電車京津沿線案内 昭和(戦前) 1点(受贈)

 大正14年、京津電気軌道は京阪電気鉄道と正式に合併し、京阪電鉄京津線となりました。本資料は、先に紹介した前身の京津電気時代に吉田初三郎に注文した沿線案内のデザインを元に、最新の沿線の情報に再構成したものです。路線や周辺の変化に対応するとともに、沿線のホテルや旅館、名物等の表記が前回よりも増えています。制作年代は賃金表から昭和3年とわかります。

京阪電車京津沿線案内

京阪電車京津沿線案内


京阪電車京津沿線案内

京阪電車京津沿線案内



小池正一撮影ガラス乾板 大正〜昭和(戦前) 51点(受贈)

 京都室町の商店に勤務していた小池正一氏(大正元年11月11日生)が、大正から昭和の初めごろにかけて、趣味として撮影したガラス乾板50枚およびフィルム1枚。京都在住であったため(住所は現在のからすま京都ホテルあたり)、撮影対象は京都のものがほとんどですが、大津港や県内のスキー場と思われる写真なども含まれています。

小池正一撮影ガラス乾板

京都市内(小池正一撮影ガラス乾板)


小池正一撮影ガラス乾板

大津港(小池正一撮影ガラス乾板)



江若鉄道関係資料(駒井芳雄氏旧蔵) 大正〜昭和(戦後) 7点(受贈)

 元江若鉄道社員が大切に保存されていた資料です。自身が勤務された期間の辞令や棒給に関する通知書のほか、制帽や徽章などとともに、廃線前後のパンフレットや時刻表・新聞切り抜きなど、廃線前後の江若鉄道の様子を撮影した写真からなります。

江若鉄道廃線の年の夏季列車時刻表

江若鉄道廃線の年の夏季列車時刻表(江若鉄道関係資料)
江若の夏は、湖西の水泳場へと行楽客が押し寄せる1年で一番忙しい季節で、通常よりも多くの列車が運行されました。この時刻表は、廃線前の最後の夏ダイヤです。


江若交通の浜大津代行輸送バス乗り場

江若交通の浜大津代行輸送バス乗り場(江若鉄道関係資料)
廃線後、昭和49年の国鉄湖西線開通までの4年余り、江若鉄道から社名を変えた江若交通が代行バス輸送を受け持ちました。写真は廃線跡の線路敷を利用した浜大津バス乗り場です。



江若鉄道指定梅田軒 駅弁掛け紙 昭和(戦前) 1枚(受贈)

 江若鉄道浜大津駅と三井寺下駅の構内で販売していた梅田軒の駅弁掛け紙。図柄の線路が大溝(高島町)から浜大津まで記されていることなどから、昭和3年頃のものだと考えられます。このお店は、浜大津駅売店として廃線までありました。

江若鉄道指定梅田軒 駅弁掛け紙

江若鉄道指定梅田軒 駅弁掛け紙



『サヨナラ江若鉄道』8ミリフィルム 昭和(戦後) 1本(受贈)

 昭和44年(1969)の廃線にあたり、#江若鉄道 元社員の方が撮影した8ミリフィルム。9月から10月にかけて撮影された10分30秒の映像には、比良駅周辺で撮影された登山客の乗降の様子など、江若鉄道を利用した観光の様子が記録されています。

『サヨナラ江若鉄道』8ミリフィルム

『サヨナラ江若鉄道』8ミリフィルム


『サヨナラ江若鉄道』8ミリフィルム

『サヨナラ江若鉄道』8ミリフィルム



山王祭等坂本関係写真およびフィルム 大正〜昭和(戦後) 一括(受贈)

 坂本在住の個人が撮影・収集した山王祭を中心とした坂本関係資料。アルバムや8ミリフィルム22本、VHSビデオテープ等からなります。大正期の氏神神輿の新調記念写真なども含まれています。

氏神神輿新調記念写真(榊宮社神輿) 大正15年5月3日

氏神神輿新調記念写真(榊宮社神輿) 大正15年5月3日



TVK−5型テレビ受信機 昭和(戦後) 1台(受贈)

 昭和30年(1955)に、テレビ部品技術研究会(TVK)によって開発された、テレビ放送黎明期の受信機。当時は完成品だけでなくキットでも販売されました。ご寄贈いただいたのは、キットを購入して組み立てたもので、説明書と組立配線指導図も保管されていました。

TVK−5型テレビ受信機

TVK−5型テレビ受信機


TVK−5型テレビ受信機

TVK−5型テレビ受信機



膳所藩士 羽太家資料 江戸〜明治 一括(受贈)

 膳所藩士羽太(はぶと)家に残る史料群。この中には、「諸事控」という江戸時代末期〜明治時代初期に膳所藩内で起こった動静について記録したもので、和宮下向や膳所十一烈士事件の記述もみられます。

膳所藩士 羽太家資料

膳所藩士 羽太家資料


膳所藩士 羽太家資料

膳所藩士 羽太家資料



又平人形 昭和(戦前) 一括(受贈)

 大正〜昭和戦前に作られた大津絵モチーフのお土産人形。大津の中村松次郎が制作していたといいます。ミシン挽きの角材で組み上げた、角ばったかたちが特徴的です。当時、ミシン挽きの郷土玩具は珍しく、商工展やパリの万国工芸博覧会にも出品されたそうです。又平人形は大津絵モチーフだけではなかったようです。写真は、昭和3年に昭和天皇即位の大嘗祭にあわせて、野洲の悠紀斎田で行なわれたお田植の装束を着た人形一式。当時は奉祝行事が行なわれ、こうした記念品が作られたといいます。

又平人形

又平人形


又平人形

又平人形