大津市歴史博物館

展示・イベント

平成19年度


第44回企画展
戦国の大津−天下統一の夢、坂本城・大津城・膳所城−
平成19年 10月6日(土)から11月18日(日)

 16世紀末から17世紀初頭、3人の戦国武将が、大津の地に城を築きました。織田信長が元亀2年(1571)の山門焼き打ち後に坂本城を、豊臣秀吉が本能寺の変から数年を経た天正14年頃に大津城を、そして関ヶ原戦に勝利した徳川家康が慶長6年(1601)頃に膳所城を構えます。これら3城は、戦国乱世から天下統一へと向かう激動の時代を象徴する、日本の歴史上においても特筆される重要な城でした。本展では、いまだ謎の多いこれら3城の縄張りや城郭の構造および歴史的な役割を、発掘遺物や絵画資料、さまざまな文献や歴史資料などを紹介することによって明らかにします。

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第45回企画展
楳亭・金谷 −近江蕪村と呼ばれた画家−
平成20年 3月6日(木)〜4月20日(日)

 江戸時代中期の俳諧中興の大家、与謝蕪村は、一方で、当時、新風をもたらしていた絵画様式・文人画の立役者としても著名です。大津では、呉春とならぶ蕪村の門弟であった紀楳亭(きばいてい【九老・きゅうろう】)が、人々に親しまれて多数の作品を描いていたほか、蕪村に私淑した横井金谷(きんこく)が坂本に庵を結び、地元に多くの作品を残しました。彼らは近江蕪村とよばれ、現代でも高い評価を受けている文人画家です。本展では、九老・金谷を中心に、蕪村・呉春および周辺の文人画家を取り上げ、ユニークな文人たちの作品と彼らの人物像を紹介します。

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ミニ企画展

第60回ミニ企画展
館蔵大津絵展
平成19年 4月24日(火)〜5月27日(日)

 大津絵は、東海道大津宿の追分・大谷界隈で売られていた土産物です。そのユーモラスな表現が好評を博し、当時全国に知られた民画でした。本展では、よく知られる「鬼の念仏」や「藤娘」のほか、初期の仏画から近代の画家の大津絵まで、収蔵品を一堂に展示します。


第61回ミニ企画展
大津の仏教文化8 日吉山王曼荼羅 拾遺
平成19年 5月29日(火)〜7月8日(日)

  大津市内に伝来する豊かな仏教文化に関わる文化財を紹介するシリーズ。今回は、昨秋に開催した企画展『天台を護る神々―山王曼荼羅の諸相―』では紹介しきれなかった山王曼荼羅や、その後の調査などでその所在が新たに発見された作品を中心に、山王曼荼羅の様々な諸相を紹介します。

[展示作品一覧]

  • 1.日吉山王宮曼荼羅図(レプリカ) 1幅 鎌倉時代 東近江市・百済寺蔵
  • 2.日吉山王宮曼荼羅図 1幅 室町時代  坂本・日吉大社蔵
  • 3.日吉山王本地仏曼荼羅図(10尊) 1幅 南北朝時代 京町・乗念寺蔵☆
  • 4.日吉山王本地仏曼荼羅図(9尊) 1幅 江戸時代  坂本・西教寺實成坊蔵
  • 5.日吉山王垂迹神曼荼羅図(7社) 1幅 江戸時代  下阪本・個人蔵☆
  • 6.日吉山王垂迹神曼荼羅図(7社) 1幅 室町時代  京都市・個人蔵☆
  • 7.日吉山王垂迹神曼荼羅図(9社) 1幅 江戸時代  葛川・明王院蔵☆
  • 8.日吉山王垂迹神曼荼羅図(10社:聖女) 1幅 室町時代 京都市・毘沙門堂蔵(B本)☆
  • 9.日吉山王垂迹神曼荼羅図(10社:聖女) 1幅 室町時代  坂本・個人蔵
  • 10.日吉山王垂迹神曼荼羅図(10社:王子宮) 1幅 室町時代  坂本・個人蔵
  • 11.日吉山王垂迹神曼荼羅図(10社:王子宮) 1幅 室町時代  本館蔵(B本)
  • 12.大津市指定文化財 日吉山王垂迹神曼荼羅図(11社) 1幅 南北朝時代  本館蔵(A本)
  • 13.日吉山王垂迹神曼荼羅図(11社) 1幅 室町時代  京都市・毘沙門堂蔵(A本)☆
  • 14.日吉山王垂迹神曼荼羅図(25社) 1幅 南北朝時代  坂本・西教寺蔵(C本)
  • 15.日吉山王垂迹神曼荼羅図(25社) 1幅 室町時代  京都市・個人蔵☆
  • 16.日吉山王垂迹神曼荼羅図(21社) 1幅 室町時代  坂本・西教寺蔵(B本)
  • 17.日吉山王宝塔曼荼羅図 1幅 室町時代  京都市・大谷大学蔵☆【5/29(火)〜6/10(日)まで展示】
  • 18.日吉山王種子曼荼羅図 1幅 江戸時代  坂本・個人蔵【6/12(火)〜7/8(日)まで展示】
  • 19.日吉山王廿一社宝号 1幅 江戸時代  京都市・毘沙門堂蔵☆ ※「坂本」コーナーに展示。
  • 20.比叡山延暦寺俯瞰図 1幅 江戸時代  京都市・大谷大学蔵
  • 21.山王本地供 1点 江戸時代  葛川・明王院蔵(葛川明王院聖教)
  • 22.日吉社服忌令 1巻 室町時代 京都市・毘沙門堂蔵☆
  • 23.日吉大宮遷宮神宝等送文 1巻 元亨2年(1322) 京都市・毘沙門堂蔵☆
  • ※所有者名の地名は、大津市の場合は市内の地名、市外の場合は市名を表します。
    ※☆印は今回初出陳です。
    ※展示替えは、17と18のみで、残りは通期展示。
第62回ミニ企画展
津田三蔵と大津事件
平成19年 7月10日(火)〜9月2日(日)

 当館では平成15年に企画展「大津事件」を開催しましたが、その後も事件関係の資料調査を継続して実施しています。その過程で、津田三蔵や、勲章を受けた人力車夫の波乱にとんだ生涯に関する新たな資料も発見されました。そこで、今回、先の企画展以降の調査成果の紹介を兼ねてミニ企画展を開催します。展示では、津田三蔵所用のサーベルや血染めのハンカチを始め、津田の幼い日の生活ぶりが分かる新資料などを合わせて紹介。あらためて明治前半期に青春時代を過ごした津田三蔵の生涯や、彼が経験した明治の社会・文化の様相などを明らかにしていきます。

第63回ミニ企画展
匠の技を知る −園城寺と葛川明王院の保存修理現場から−
平成19年 9月4日(火)〜10月21日(日)

 国宝の園城寺金堂と重要文化財の葛川明王院本堂、護摩堂は、本格的な修復が現在行われています。園城寺金堂は、平成17年の台風による被害と、前回の修復から月日がたっていたこともあり、全面的な葺き替えとなりました。これにより、屋根裏に書かれた墨書銘の調査が進み、今まで知られていなかった情報が得られてきています。また、葛川明王院本堂は「こけらぶき」で葺かれ、そのまわりが銅板で覆われていましたが、今回の解体修理により、現状の遺構や伝来する資料から、「とちぶき」であったことが分かりました。
 本展では、古建築修復の様子や普段見ることができない建物の裏側について、建物の部材や道具、そして写真パネルで紹介します。


第64回ミニ企画展
園城寺の慶長期の復興と金堂の再建
平成19年 10月23日(火)〜11月25日(日)

 ミニ企画展「匠の技を知る−園城寺と葛川明王院の保存修理現場から−」の続編として、現在修理中の園城寺金堂が再建された、園城寺の慶長期について、様々な資料から紹介します。
 園城寺(三井寺)は、文禄4年(1595)に豊臣秀吉により闕所を言い渡され、寺院としての機能を停止させられます。寺内にあった仏像などの宝物は、園城寺の門跡寺院である聖護院や照高院などに疎開され、堂舎も他に移されたりしました。特に、中心の建物である金堂は、比叡山の復興のために西塔釈迦堂(現存)として移築されてしまいました。慶長3年(1598)に入りようやく闕所がとかれ、まずは唐院の再建が始まります。そして北政所より金堂と閼伽井屋の建立も始まり、本格的な復興が波に乗り、今見る寺観が整っていきました。
 今回は、闕所後に行われた三井寺の復興について、特に建築に関する資料を中心に紹介します。(「戦国の大津」展でも、三井寺復興関連資料を展示します。あわせてご覧下さい。)


最近の調査で明らかになった三井寺ゆかりの仏像をあわせて初公開!
観音寺町の新発見の仏像の初公開について
日本最古級の鉄仏の初公開について


第65回ミニ企画展
大津の遺跡シリーズ6 崇福寺と上高砂遺跡
平成19年 11月27日(火)〜1月27日(日)

 崇福寺は天智天皇の勅願により天智7年(668)年に建てられた寺院で、大津宮の乾(北西)にあったといわれています。この寺院跡は、滋賀里西方山中の3つの尾根上にあります。昭和3年及び13年に発掘調査が実施され、北尾根に弥勒堂(みろくどう)、中尾根に塔と小金堂、南尾根に金堂と講堂が配置されていることが明らかになりました。また、塔基壇の地表下1.2mにある塔心礎(とうしんそ)側面の小孔から舎利容器(しゃりようき)や荘厳具(しょうごんぐ)が出土しました。現在、北・中尾根の建物群を崇福寺に、南尾根の建物群を桓武天皇が天智天皇追慕のために建立した梵釈寺(ぼんしゃくじ)とする説が有力です。
 上高砂遺跡は、崇福寺の南東約1kmの山麓に位置している弥生時代から平安時代にかけての複合遺跡です。昭和62年度の発掘調査では、平安時代の掘立柱建物跡・井戸跡・溝あるいは河川跡などが発見され、また、平安時代の土器が多量に出土しました。特に土器に文字を記した墨書土器が約30点認められ、その中でも「南寺」の墨書土器は注目されました。このような遺構・遺物の状況から、上高砂遺跡は寺院に関係する遺跡と考えられ、特に崇福寺あるいは梵釈寺との関連が想定されます。
  今回のミニ企画展では、このような古代近江を考える上で貴重な遺跡である崇福寺と上高砂遺跡の資料について紹介します。

第66回ミニ企画展
葛川明王院文書
平成20年 1月29日(火)〜3月9日(日)

  葛川坊村町にある、比叡山延暦寺の別院、明王院は、天台回峰行を創始した平安時代の僧、相応和尚によって開かれました。相応は若き日、修行の地を求めて比良山中に分け入り、明王谷三ノ瀧で生身の不動明王を感得したと伝えられ、以来この地は、回峰行の聖地として大切にされてきた場所です。現在も続く葛川参籠(夏安居:太鼓廻し)は、相応和尚の葛川での修行を再現しています。
 明王院が開かれると、この霊場を護るため住民が居住するようになり、生活のため、豊かな山林を開発し炭焼きなどの生業をはじめます。やがて人口が増加してくると、こうした開発は、広範に及ぶようになり、周辺の村々との対立を生むようになりました。聖地葛川を護るために居住する葛川住民が、生きるために山林を開発し、結果として生まれた周囲の村々との相論です。こうした相論にまつわる古文書や葛川参籠に関する古文書など、平安時代以来の膨大な資料が、葛川明王院には残されています。
 平成3年、平安時代から江戸時代にかけての古文書が「葛川明王院文書」として重要文化財に指定されましたが、その数は4,336通に及ぶ膨大なものです。この資料のうち、中世の古文書については、村山修一氏によって昭和38年『葛川明王院史料』として公刊され、中世、近江の山村で繰り広げられた住民たちの歴史を伝える貴重な資料として注目され、多くの研究が積み重ねられてきています。
 本展では、鎌倉時代後期、文保元年(1317)に起こった伊香立との相論を中心に、聖地であるがゆえに護らなければならなかった自然と、人々が生きるために開発することとのせめぎあいの中で、葛川の歴史が刻まれてきたことを、資料から紹介します。