大津市歴史博物館

展示・イベント

大津百町

 大津の地名は、大きな港(津)に由来し、すでに平安時代、都への物資を中継する港として重視されていた。豊臣政権下に築かれた大津城が関ヶ原合戦でその役割を終えると、城は膳所に移され、大津は城下町から商業都市へと変貌。江戸幕府の直轄支配地(天領・てんりょう)として代官が置かれ、その繁栄ぶりは「大津百町(おおつひゃくちょう)」と称された。このコーナーでは、「札の辻」町並み模型を中心に、宿場町・港町・園城寺(三井寺)の門前町として賑わった「大津百町」の様々な姿を紹介する。




札の辻の町並模型

 江戸時代、東海道五十三次の宿場町としてにぎわった大津宿の中心街「札の辻」周辺の町並みを復原した。「札の辻」とは、幕府の法令を書いた高札場(こうさつば)がある辻であったことに由来する。この地は東海道と北国海道(かいどう)の分岐点にあたり、多くの旅人や荷物を運ぶ馬などが行き来する賑やかな場所であった。町並み模型では、町家の構造がわかるように手前の一部は1階のみ復原している。ただし、各家の業種は架空のものである。縮尺30分1で、人形のさまざまな動きまでが分かるようになっている。



模型の平面まで視線を下げて見ると立体的に見えます。一度来館して試してみてください。



札の辻のにぎわいや変遷をより深く知るための解説機器を新たに設置しました。

城下町から商業都市へ

 天正14年(1586)頃、豊臣秀吉は城を坂本から大津に移し、京都・大坂へとつなぐ政治・経済の重要拠点とした。この大津城は、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では、東軍(徳川家康軍)の戦略拠点として重視され、城主京極高次の籠城戦が、東軍を勝利に導いた。その後、城は膳所に移され(天守閣は彦根城へ)、かつての城下町は商業都市に変貌。大津城の中堀や外堀は、物資荷揚げ用の舟入として利用され、城跡は町地として整備された。元禄時代(17世紀後半)には、町数100カ町、人口1万8千人を超える、活気あふれる都市に成長した。


歴史事典:大津城跡大津宿本陣跡

大津代官

 大津は幕府の直接支配地(天領)として代官が赴任した。代官所は湖に突き出た旧大津城本丸跡で、当初は小野氏が就任。大津町は享保7年(1722)、享保改革の一環として京都町奉行の直接支配となり代官が廃止されるが、明和9年(1772)に復活。以後は石原氏が幕末までほぼ世襲している。代官の配下には同心20〜30名が配置され、元締・小頭・横目・町役・目付などの部署があった。また大津代官の管轄範囲は広く、大津百町の支配とともに、近江一国の民政や大津百艘船の支配なども担当した。


町人の組織

 大津町の人口は元禄時代に1万8,000人を超えたが、代官配下の同心が少なかったため、町人全体をピラミッド型の組織に編成して支配が行われた。代官の下には、大津町人の代表として惣年寄が置かれ、矢島・小野両家が幕末まで世襲。一方、大津百町は10数カ町ずつ7組に分けられ、各組の代表者として組惣代7名が置かれた。さらに各町には、町年寄とそれを補佐する五人組役が選任された。彼らは町会所で寄合を開き「町定」を制定し、「自治的」な運営が行われた。


大津の名産

 大津町の名産、とりわけ旅の土産として名高かったのは、大津絵や大津算盤(そろばん)、縫針(ぬいばり)であった。これらは、大谷・追分の特産品である。大津の宿場の町中では、酒造や和菓子が名産で、江戸時代後期には19軒の上菓子屋仲間が結成されてる。また、京都御所の御用達商人も3軒あった。


歴史事典:大津算盤

大津絵

 大津絵は、江戸時代の初め、17世紀の中頃から、東海道筋の追分や大谷で、旅人への土産として売り始められた民画。図柄は「十三仏」「青面金剛」などの仏画から、「藤娘」「鬼の念仏」など、ユーモラスな風刺で好評を博した世俗画まで多種多様であった。後には教訓を歌にした道歌が添えられるようになり、幕末には「藤娘」が縁結びに効き目があるなど御利益のある護符としても人気を集めた。

青面金剛

鬼の念仏


歴史事典:大津絵

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