展示・イベント
堅田と比良山麓の村々
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日本最大の湖「琵琶湖」は、古来より物資運搬の大動脈として大きな役割を担ってきました。中世に、この舟運に関する諸権利を掌握し、湖上交通の拠点として発展した町が堅田です。堅田は、その経済力を背景に自治都市として伸張し、禅宗や真宗への信仰も盛んで、京都を追われた蓮如(れんにょ)が一時この地を布教の拠点にすることもありました。また、漁業についても特権を持ち、湖とともに歴史を刻んできた町といえます。堅田から北につづく比良山麓の村々には、山や湖の恵みを生かした暮らしが伝えられています。
堅田の町並模型
今から400年前、室町時代末期の頃の堅田の町並みを復原しました。当時の民家は板葺きか藁葺きの屋根で、江戸時代に近江八景として有名になる浮御堂も今とずいぶん形が異なるのがわかります。浜には漁に使う網が干してあり、四ツ手網漁のために建てられた粗末な小屋もあります。
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模型の平面まで視線を下げて見ると、より立体的に見えます。展示室でぜひ試してみてください。
歴史事典:浮御堂
湖上水運と堅田
中世の堅田は、湖上での自由通行権を持ち、舟運や漁業を広範に行なうとともに、湖上の関所のひとつである堅田関の管理や湖上を渡る船を承認し安全に航行させる力(上乗権・うわのりけん)を持っていました。こうして堅田は、湖のにぎわいとともに大きな力を持つ町に成長していきます。
堅田の風光
堅田は湖に面して開け、風光明媚な地に位置しています。湖上交通の拠点としてにぎわい、この地を訪れた多くの人々は、浮御堂をはじめとする雄大な景観を楽しみました。
堅田のシンボルともいうべき浮御堂は、湖上交通の安全と衆生済度(しゅじょうさいど)を願って、平安時代、比叡山横川の恵心僧都源信(942〜1017)が開基したと伝え、多くの文人墨客がその風光を愛でました。一方、江戸時代初期、北村幽安が、茶人の藤村庸軒の指導を受けて作った茶室と庭園・天然図画亭は、琵琶湖とその背後の山並みを借景にした雄大な名園です。
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浮御堂
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天然図画亭(居初家庭園)
堅田の宗教
堅田の地侍であった殿原衆(とのばらしゅう)は、禅宗を信仰し、祥瑞寺(しょうずいじ)が開かれます。開山は臨済禅の高僧華叟宗曇(かそうそうどん・1352〜1429)で、若き日の一休宗純(いっきゅうそうじゅん)もここで修行しました。一方、商工業者や百姓で構成される全人衆(まろうどしゅう)の信仰を集めたのは真宗で、本福寺や光徳寺を中心に門徒集団が形成されていました。
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本福寺
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祥瑞寺
堅田藩と比良山麓の村々
元禄11年(1698)、下野国佐野(栃木県)の藩主であった堀田正高は、近江国志賀・高島郡に知行を移され、本堅田村の陣屋に入り、堅田藩がはじまります。比良山麓の村々は、この堅田藩をはじめ、三上藩(野洲市)や天領、旗本領などが入り組む地域でした。急峻な山が迫り、湖に面したこれらの村々では、山野の利用や水の用益をめぐっての苦労がたえず、大物(だいもつ)村では村を河川の氾濫から守るため、百間堤とよばれる構築物も造られています。
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本堅田村絵図
歴史事典:百間堤