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近江大津宮
天智2年(663)、日本は百済(くだら)を救援するため朝鮮半島に出兵した。しかし、白村江の戦いで大敗し、日本はいつ唐(とう)と新羅(しらぎ)の連合軍に攻め込まれるかという緊迫した状況を迎える。こうした東アジア情勢の下、天智6年(667)、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は飛鳥から近江へ遷都し、翌年即位した。天智天皇による近江大津宮の誕生である。国の中心となった大津宮では、全国的な規模としては初の戸籍「庚午年籍(こうごねんじゃく)」の編成などの政治改革が進められた。その後、天智10年(671)、天智天皇が崩御すると、翌年大友皇子と大海人皇子(おおあまのおうじ)との間で皇位継承を争う壬申(じんしん)の乱がおこった。乱後は、再び飛鳥へ遷都される。近江大津宮はわずか5年余の都であった。
大津宮中枢部建物復元模型(縮尺200分の1)
この模型は、昭和49年(1974)以降に実施された発掘調査の成果をもとに制作したものである。[監修:林博通 ,滋賀県立大学教授(制作当時)]
近江大津宮中枢部の内裏正殿、後殿、南門、その周囲をめぐる塀と回廊を復元している。模型の中で、濃い茶色で示した部分が発掘調査を実施した場所で、建物が復元できない遺構については、発見された柱穴の位置のみを示している。なお、模型のベースとなっている町並みは、平成5年(1993)当時のものである。
大津宮と周辺寺院
大津宮跡と考えられている錦織(にしこおり)遺跡の周辺では、同時期の古代寺院が発見されている。穴太二丁目の穴太廃寺(あのうはいじ)、滋賀里西方山中の崇福寺跡(すうふくじあと)、南滋賀集落内の南滋賀廃寺(みなみしがはいじ)、園城寺前身寺院、滋賀県庁北側の大津廃寺などである。これらの寺院は大津宮の周辺に位置し、都の広がりを考える上で注目される遺跡である。
崇福寺跡
『扶桑略記(ふそうりゃっき)』によると、天智7年(668)に天智天皇の勅願(ちょくがん)で建てられた寺院で、大津宮の乾(北西)にあったとされる。寺院跡は滋賀里西方山中の3つの尾根上に位置する。昭和3年及び13年に発掘調査が実施され、北尾根に弥勒堂(みろくどう)、中尾根に塔と小金堂(しょうこんどう)、南尾根に金堂と講堂(こうどう)が配置されていることが明らかとなった。現在北・中尾根の建物群を崇福寺に、南尾根の建物群を桓武天皇が天智天皇追慕(ついぼ)のために建立した梵釈寺(ぼんしゃくじ)とする説が有力である。
歴史事典:崇福寺跡
穴太廃寺
穴太廃寺は白鳳(はくほう)時代(7世紀後半)を中心として平安時代まで存続した寺院である。発掘調査において2時期の伽藍(がらん)が重なって発見された。創建寺院は完成していたかは不明であるが、穴太周辺に残る古い地割に沿って建てられた、法起寺式あるいは川原寺式の伽藍配置をもつ寺院である。再建寺院は大津への遷都に伴い、建物の主軸を大津宮関係の建物の方位にあわせ、法起寺式伽藍配置で建て替えられた寺院とみられる。
歴史事典:穴太廃寺跡
崇福寺塔心礎納置品
中尾根の塔基壇(とうきだん)の地表下1.2mにある塔心礎(とうしんそ)側面の小孔から舎利容器(しゃりようき)や荘厳具(しょうごんぐ)が出土した。舎利容器は金銅製外箱、銀製中箱、金製内箱と瑠璃(ガラス)壷からなり、それを中心に、周囲に鉄鏡・無文銀銭・銅鈴・硬玉(こうぎょく)製丸玉などが置かれていた。
崇福寺塔心礎納置品(複製)
南滋賀廃寺
南滋賀廃寺は、崇福寺跡とともに大津宮の所在地を究明する目的で、昭和初期に2度発掘調査が実施された。その後も調査が進み、中門から回廊に囲まれて東側に塔、西側に西金堂、その北側に金堂、講堂が順に並び、講堂を三方に囲む僧房が配置されるという飛鳥の川原寺式伽藍配置をもつ大規模な寺院と考えられる。現在は一部が公園になり、寺院遺構の塔心礎や回廊の礎石などが残されている。
歴史事典:南滋賀町廃寺
南滋賀廃寺出土瓦
南滋賀廃寺創建期の軒丸瓦の文様には2つの系統がある。1つは複弁(ふくべん)八弁蓮華(れんげ)文軒丸瓦で川原寺出土軒丸瓦と似ている。もう1つは、蓮華文方形軒瓦である。軒丸瓦のデザインは、一般的に蓮の花を真上から見たものであるが、この方形軒瓦は蓮の花を横から見たもので、「さそり瓦」というニックネームを持つ。また、奈良時代のものとみられるが、蓮華文の周辺に飛雲文を配した鬼瓦も出土している。
歴史事典:榿木原遺跡
大津宮の復元
大津宮の所在は長い間不明であったが、昭和49年(1974)に錦織地区で実施された発掘調査で大津宮の建物の一部とみられる遺構が発見され、その所在が明らかになった。以降、周辺地域で発掘調査が実施され、内裏(だいり)南門(なんもん)、内裏正殿(せいでん)、内裏後殿(こうでん)、長殿(ちょうでん)、回廊(かいろう)、塀などの遺構が確認された。このようにして復元された大津宮中枢部の建物配置は、前期難波宮(大阪市)や、飛鳥宮V‐A期遺構【後飛鳥岡本宮】(奈良県明日香村)の建物配置に類似しているとみられる。
壬申の乱と瀬田橋
天智天皇が大津宮で崩御(ほうぎょ)すると、翌年その皇位継承をめぐって大友(おおとも)皇子と大海人(おおあま)皇子との間に壬申の乱が勃発(ぼっぱつ)した。戦いは大和と近江を主戦場とし、最後の決戦が「瀬田橋」で行われた。ここでは激しい戦いとなったが、湖西を南下し大津宮に迫る大海人皇子軍の別働隊もあり、挟み撃ちにあった近江朝廷軍は壊滅する。
この壬申の乱の舞台となった橋の遺構が唐橋遺跡の発掘で発見された。7世紀中頃と考えられる第1橋は、現在の瀬田唐橋の南約80m地点で発見され、橋の構造は組み立て式の重厚な造りであった。
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